『山椒魚の世迷い言』


 不朽の名作『ドラゴンボール』における鳥山明先生のネーミングセンスといえば、ブルマを筆頭に基本的にふざけていてナイスなのだが、中には奥深いものもあって、その一つに “精神と時の部屋” があげられると思う。
 いちお読んだことのない人のために説明するが、精神と時の部屋とは、端的にいうところの登場人物たちの鍛錬の場であり、大きな特徴は通常の世界における1日がその部屋の中では1年の時間経過を意味するという、キャラクターを短期間で手っ取り早く強くさせるのにもってこいのお部屋のことなのだが、このネーミングの妙は、ストーリー上の役割から考えるに “時の部屋” でも十分通じるところをわざわざ “精神” という言葉を足しているところにあると思う。
 要するに精神が試されるお部屋ですよ、と。それぐらい過酷なお部屋なんですよ、と。ご親切に強調されてあるわけだが、ではここで改めてその部屋の設定を子細にあげてみてだ。この部屋がどう “精神” と関わってくるのかを唐突だが検証してみたいと思う。
 まず、その内装だが、部屋の中は何もない。漫画を読んだことがある人ならわかると思うが、真っ白な空間が地球と同じ広さで延々と広がってるのみだ。環境も外とは違っていて、その空間での気温変動は激しくその差は100度近く。空気は遥かに薄く、重力は外の世界の何倍にも及ぶ、と概ねこうある。
 なるほど、地獄である。さすがのカカロットさんも音をあげるわけだ。
 仮想するに、環境設定も遥かに厳しいわけで、確かに肉体的なツラさをきっかけとして精神が試されることになるのだろう。......が、それだけだろうか?
 否。作中でこそフィーチャーされていないが、この部屋を “精神と時の部屋” たらしめる真髄は別にあるとボクは踏んでいる。
 というのも、漫画で初めてこの部屋が描かれているのを読んだとき、ボク個人としては一にも二にもまずこの一点に堪え難い印象を受けたからだ。
 現実的に考えていただきたい。例えば、ボクらのような常人がこの部屋を使ってみるとする。その際、仮にこの部屋の厳しい環境に適応できたとしようではないか。そう仮定した場合に、じゃあ、肉体的負担さえなければこの部屋でフツーに過ごすことが出来るのかとイマジンしてみると、これが怪しいわけである。
 というか、まぁ〜無理だろう。確実に気が狂う。
 なぜか?
 この部屋の空間には何もないからだ。
 これはもう刑務所よりキツい。食料と最低限の生活設備は整っているという設定だが、それ以外の物は何もないわけだ。一人ぼっち。部屋は真っ白で、景観もない。おまけに明け暮れもないときたもんだ。こんな部屋で1年も過ごせるわけがない。
 『ナッシング』という映画でも似たような世界が描かれていたが、結局、何もないという状況に人間の自我、すなわち精神は耐えられないのである。
 大量消費時代の真っ只中にあって、もはや想像すら及ばずピンとこない人もいるかもしれないが、スマホが手元にないというだけで心許なくなってることを思えば実相は明白。
 何かがあることによって人の精神は保たれ、何かがあることによって人は生きていけるのだ。それは他者しかり、物しかり、景色しかり、時間経過しかり。
 これは “自由” という概念の本質にも通ずるところがあって、フリーランスとして活動するボク自身が日々痛感するところのものでもあるのだが、例えば、ボクが以前会社勤めをしていたことはここで何度か記してきたことだが、会社を辞め、この仕事を始めて8年。最近のボクはといえば、フリーになったばかりの当初とは違った心持ちでいるわけである。
 そもそも、絵を描くことを仕事にしようと思ったその出発点が何だったのかということになるのだが、その動機として占められていた思いというのはコレだ。
 “会社で働きたくない”
 心のベスト10 第一位はこんな曲だったぁ〜、である。
 辛抱が足らなかったんですね。心理状態としては『こんなこいるかな』の “やだもん” みたいな。
 傍目には上手いこと立ち回ってるように見えていたようだが、個人的にはコレを死ぬまで続けにゃならんのかと思うと、もう、ブルーでブルーで。
 “自分には会社で働く才能がない”。いささか早いジャッジではあったが、ある種の挫折であった。
 だから会社勤めしている人に対しては今でも並々ならぬ思いを持っていて、常日頃から深く敬服。前方からスーツ姿の人が歩いてきたなと思ったら就活生だろうが、007だろうが、FIELD OF VIEWだろうが、道の脇によけて、通過して見えなくなるまでお辞儀ですわ。新橋なんか行こうもんなら頭下げっぱなしになってもう一歩も前進めないもんね。オレみたいなもんは。
 自分は体制というものに対して耐性があるほうだと思ってたのだけれども、全然なのであった。根性なし。社会不適合。落伍者。
 加えて、人のせいにするわけではないのだが、一番近しい友人が漫画家の卵をやっててプープーしていたのもよくなかった。こちとらストレスでごっそり毛が抜けるような生活を送っているというのに、ドラマ版「釣りバカ」のスーさんばりにエニタイム・エニウェア、くだらないTELをかけてきては悠々自適感を打ち出してくるもんだから、不満はいや増すばかり。ついにはそいつの姿に生き甲斐を重ね、羨むようになり、
 “このアホみたいに、自由になりたい!”
 こう思うに至ってしまったわけである。齢24にして、遅咲きした尾崎イズム。
 絵がまるで描けなかったボクに実現出来るとも思ってなかったのだが、行動に移してみたところ、ヤクでもキメてラリってたであろう編集さんの目に偶然留まったんでしょうね。ボクは運良く絵を描く仕事を獲得でき、どういうわけかそれが奇跡的に続き、生活のためにしていたバイトを辞め、念願のフリーランスになることが出来た。
 通勤ラッシュともおさらば、営利主義の食い物のような空っぽな仕事ともおさらば、家に帰れない日々ともおさらば、煩わしい人間関係ともおさらば。ボクは自分の生活の中に自分の意志を取り戻したのだった。
 好きな時間に起きて、好きな時間に寝る。好きな時に飯だって食うし、好きなように仕事をこなす。会社という枠から抜け出すことで、自由になれた気がした27の夜。
 しかし、それで人生が快適になったのかといえば答えはNOで、思えばこれが不安と孤独の始まりなのであった。
 会社にいて、あれだけ管理されるのが嫌だったはずなのに、今ではすっかり自分で自分を管理している始末。
 無意識に決めごとを作って、毎日同じサイクルで動いて、そのサイクルから外れたと感じればどうにも不安になったりして。
 昨日が今日で、今日が明日でも変わらないような日々を憂いているはずなのにそれをどこかで求めたり、何でも出来るはずがこれしか出来ないと世界を縮めたり。自分を守るために何かに縛られようとしたり。枠の中におさまることを望み、枠を作ろうとする自分の姿に当惑すること頻り。
 結局、ボクらが希求する “自由” なんてもんは、せいぜいコンビニでパンの棚から好きなパンを選べるぐらいの自由のことで、“真の自由” の前においては人は無力だということを思い知らされたのであった。
 それは『海の上のピアニスト』で船の上に生まれ、船から一度も降りたことがなかったティム・ロスが船を降りることを決意するも、茫漠たる世界を前に、恐怖し、降りることが出来なかったのに同じ。
 人間には “枠” が必要だったのである。
 それは自分を規程するための何か。“精神と時の部屋” のように、何の “枠” もない世界では人は人を保てない。“枠” が些少であれば『進撃の巨人』の端のエリアに住む人のように心許ない。こういう塩梅なのだろう。
 自由を求めた尾崎豊の悲劇とは、本当の自由なんてどこにもないことを彼が知っていたことだったのだ。
 そうして、ボクたちの世界は積み重ねられていった。
 自我を保ち、満たすための行動はエスカレートし、歯止めをなくし、人は増え、物は溢れ、ルールは重ねられ、様々な概念が肥大し、世界は窮屈になった。
 そして、宗教が生まれ、争いが生まれ、アートが生まれ、ロックが生まれ、日本においてはその流れの延長でサブカルチャーみたいなものが確立されると、いよいよ人間は虚しくなった。まるで、肥大して岩穴から出られなくなった山椒魚のように。それは自分を顧みれば十分理解出来ることだ。
 それが良いとか悪いとか偉そうに論じようってんじゃない。賢しらぶって悲観するつもりもない。いたずらに煽ろうって腹でもない。
 ボクらが今いるのはそういう時代だというだけのこと。正しさも過ちも含め、いろんな時代のそれぞれの打開の先に今があるわけで、なるべくして今に至ったのだ。誤解を恐れずにいえば、憂いたところで仕方がない。
 とはいえ、ボクが時代に置いていかれ始めたからなのか、それともボクが時代を遠ざけようとしているからなのか、今のこの時代に在ってやはり個人的に言い表せない焦りを感じているのもまた事実。何より、末端であれど、大量消費文化に微小なりとも加担して飯を食っていっているという自分の中の罪悪感には割り切れなさを禁じ得ない。
 “正しいことなんてない” といってしまうと、これはもう虚無の思うツボなのだが、かといって、何が正しいかなんてわからないし、自分に何が出来るのかもわからない。もちろん大それたことをしなければいけないわけでもないし、自分に大それたことが出来るとも思わないのだが、このままではいつかどこかで破綻するような気がする。ツケを払わされる瞬間が必ずやってくる。
 無論、永遠なんてないわけで、それも運命といってしまえばその通りなのだが、それでもやはり今を生きる一人の人間として、ボクは恐怖にも似た危機感を覚える。“何でもある” ようで、“何にもない” 世界がやってくるんじゃないかと、不安になる。 見て見ぬ振りはもう出来ない。かといって、どうすればいいか問題の答えなんて到底わかりそうもないのだが......。
 とりあえず、時代と向き合うことだけは怠らないようにしなければいけない。じゃなきゃ、いろんなことの判断を間違える。
 その中でどれだけ自分や他人の人生に誠実であれるか、真摯であれるか。
 この世界にあって、人の精神は常に試されているのだ。


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