『人格のたしなみ』


 この歳になると、当然自分と同世代の友人知人の多くの勤め人は仕事場でそれなりの役職なり立場なりになっていて、みんないい感じにくたびれているのだが、それぞれの仕事の話を聞いているとまぁ〜みんな立派だなと、心底頭の下がる思いになる。外で懸命に働き、誰かを支え、何かのために人生に立ち向かっている彼らなり彼女らなりとの交流は、自分の不甲斐なさやクズさ加減を痛感し内省する貴重な時間になっているのだが、おおよそ苦労というか問題として面々の口から語られることといえば、やはり職場の人間関係であった。
 いわゆる中間管理職にあたる彼らが、ハンバーガーの具のように上から下からプレスされるストレスたるや想像を絶するのだが、ハンバーガーの内容が中の具で決まるのと同様、そのポジションが会社やお店の持ち味になることは言わずもがなで、その重責ゆえの代償といえば致し方のない部分もあり、ボクとしても銘々の捌け口になってあげることぐらいしか出来ることもないので、ひたすら皆さんのお話に耳を傾けるわけですけれども、なんというか、シンプルにいってしまえば色々大変そうである。とはいえ、人とほとんど交流せず、大した起伏もなく淡々と過ぎ去る自分の空っぽな毎日にくらべれば、喜怒哀楽をフルに回転させていて、何とも「“人生” やっとるなぁ〜」と充実してるように感じてしまうのだから、人は無い物ねだりだなと思わざるを得ないのだが、しかし、実際起こった話を聞かされ追体験してみれば、やはり煩悶すること山の如しで、彼らのストレスが骨身に沁みるのもまた然り。
 これはある飲食店の店長として働いている人の話である。
 その日その店長のお店は大混雑。夕方になり、シフトの早番組が上がる頃にもその混み具合は納まらなかったらしく、そこで店長にこんな懸念が生じたのだという。
 “少数体制である遅番にシフトして果たして今のこの現状を乗り切れるだろうか”
 すると、早番で入っていた一人のあるバイトの男のコが「オレ、もうちょっと残りますよ」と自主的に残業を志願。ナイスな申し出。店長であるその人はその心意気が大層嬉しかったようで、彼の肩をポンっと叩き、忙しさでピリついた空気をほぐす意味もこめて、笑顔でカジュアルにこう応答したのだそうだ。
 「さすがっ! やるぢゃん!」と。
 別段おかしなやり取りでもない。脈絡的にも褒め言葉というか、店長の喜び、彼への評価が表現されているセリフであることは伝わると思う。
 が、しかし、このセリフがその早番くんの謎のスイッチに触れた。
 お店が落ち着き、早番くんが改めて上がる際、彼はズカズカとその店長に歩み寄ってきてケンカ腰でこう言ってきたのだという。
 「さっきの発言、どういう意味っすか? すっげぇ、ムカつくんスけど。謝って下さい」
 何が? である。当然店長もそう思ったらしいのだが、聞き質すに前述のセリフが引っかかったとのことで、話を聞いたボクも思わずキョトン。
 本人が怒ってるぐらいなので彼の中の何かしらに抵触したことは間違いないのだろうが、一体何が気に入らなかったのか。セリフからどこか見くびられてるような印象を受けたのだろうか。分かりかねるが、よしんばそのコの何かを侵害するような要素がそのセリフの中にあったとしてもだ、店長相手にそんな強気な発言するもんかね。「謝って下さい」って。別に権威主義というわけではないのだが、明らかにボクにはない図太さで、ついつい “今時なのかな” と括ってしまいたくなる物腰なのであった。まぁブチ切れしてる人間に礼儀もクソもないのだろうが、とにかく、その店長は発言にそんな意図がない旨を伝え、それでももし傷付けたということであればそこは申し訳なかったね、と、軽く詫びたらしいのだが、早番くんはその店長のレスポンスを受けたのち、マジ切れトーンのままこう捨て台詞を吐いて帰っていったらしい。
 「二度とあんな発言しないで下さい」
 カミーユかよ。(Zガンダム)
 店長が偉いわけじゃないが、何だか客観的に聞いてるこっちまでムカついてくる風情がある。
 GTOだったら、とっくに井の頭公園の池に沈められてるような態度というか。
 いや、でも “言いたいことも言えちゃうこんな世の中” になって、GTO(反町隆史)は頷いているのかも。いやいや、そういうことか? おい、反町。とにかく、自由奔放。
 そんでまたこれがこの時だけのことならまだいいのだろうが、聞くとこの男のコ、そういうステルス性の地雷を山ほど持っているらしく、事あるごとにイチイチ腹を立ててはこういう態度をとってくるというのだから手に負えず、褒めて伸ばす方向にもっていけば図に乗るし、それこそ厳しい態度で教育したところでまるで聞く耳をもたないということで、心中察するに余りある。もちろん辞めさせることは店長にとって本意ではないわけで、上に相談してみるも、現場の状況を密に把握していないものだから店長の仕事の範疇といわんばかりに一方的に責められるだけらしいし、店長自身のマネージメントの是非はさておき、純粋に本人の気持ちだけを汲めば、もはや気の毒と思うほかない。とはいえ、然もありなん。これが社会なのである。
 近年、スタッフの意見に耳を傾ける風通しのいい会社的思考が強くなってきているのをそこはかとなく感じるが、スタッフが何でも意見できるある種フラットな会社やお店というのは、こういう弊害を孕みがちである。なんせ人間は基本的に愚かだから。容認されればすぐに誤解し、つけ上がり、つけ込むわけで。気が付けば手段が目的になってるなんてこともザラで。実際、その店長の会社もそんな社風ということで、下が何でもかんでもいちいち口を出してくるという仕上がりをみせていて、余程の度量がないと現場の社員はすぐに潰れてしまうらしい。もちろん会社そのものの真価や個人としての資質ないし能力が関係していることも間違いないのだが、そういうある種共産的なスタイルがスタッフの思い上がりや人間の軟弱さを助長する要素を多かれ少なかれ含意していることは間違いなく、結局、同じ目線というか、横並びというのも良し悪し。先程のハンバーガーの話じゃないが、やはり会社だとかお店だとかそういう共同体として力を発揮するためには、構成としてハンバーガーのように縦の並びが意味をもつこともあるというのがよくわかる。上のパンと中の具と下のパンを横に並べてバラバラに食べても美味しいかもしれないが、やっぱりハンバーガー足り得る合理性というか美味しさというか満足感は間違いなくあるわけでね。......なんてことをいってると、“サンドイッチは横じゃん” という突っ込みが聞こえてきそうだが、要は、横でバランスよく美味しく仕上がってるならそれはそれでいいと思うが、それが絶対的ではないということ。会社における縦関係を十把一絡げに悪しき慣習とするのはこれは浅薄なので、混同と偏見のないように立場関係なく相互に意識することが重要なのだろう。と、耳学問でバカなりにすごく当たり前のことを思量したりするのだが、そんな簡単な話ではないんだろうし、会社にも行っていない人間が見識ぶったところで何の説得力も根拠もなく、浅知恵以外の何ものでもないので、この方向の話はこの辺でヤメ。
 とにかく、下には下の不満があるのと同様に、上には上の苦労もあるといったところで、会社員の難儀は絶えず、方々の話を聞いているボクとしても人間関係の複雑さに溜め息が出るばかりなのであった。
 ところで、上記の店長さんの話にみるスタッフのような理性や信念に基づいているとは言い難い不満というか、不快感というか、それに転じる態度というのは、自分も経験上度々直面してきたことではあるのだが、こういう状態にすぐに陥る人、いわゆるプライドが高いゆえかコンプレックスが強いゆえか、沸点が低いなと感じられるようなタイプの人に関して、個人的に独断と偏見でだが、しばしば思い当たる印象というのがある。そういうタイプの相手に対して自分の中で往々にして帰結する印象というか。勝手な思い込みというか。線引きというか。曲解というか。それがコレなのであった。
 “ユーモアがない”。
 意味合いだけとれば “面白味” みたいなことにあたるので、人によっては極めて不本意且つ失礼な決めつけと取られるかもしれないが、しかし、これは別にその人が面白いか面白くないかといったことを必ずしも焦点としているわけではなく。要は、度量というか、ユーモアというものが一つの素養としてその人の人間性、言い換えれば柔軟性という点に大きな影響を及ぼしているのではないかという角度のお話なのだが、実際どうだろう。これがある人とない人ではその生き様が大分違ってくることも明らかだったりするのではなかろうか。
 例えば、先程の早番くんの案件でいえば、実情はわからんが、彼にそれ相当のユーモアがあれば前述の店長の発言に対してああはならないと思うのだ。「さすが! やるじゃん!」と言われたあとのレスポンスにしたって、もうちょっと気を利かす方向に意識が向くはずなのである。
 「たぶん、このあと雨降りますよ」だとか。
 「初めて自分で自分をほめたいと思います」とか。
 「ただし、3分で星に帰ります」とか。
 「自分の人生で2回あるかないかの善意をここで使います」とか。
 「店長ポイント、何ポイントゲットですか?」とか。
 「な〜に、帰る家がないだけですよ。ピース!」とか。
 自己弁護のためにも繰り返すが、内容が小洒落てるとか、面白いか面白くないかということではなく、つまり、ユーモアがあれば相手の言動に対してまず怒りの方向にギアを入れるなんてことにはならないというのがボクの見立てで、言い換えれば、ユーモアというものには緩衝的というか潤滑的な役割があり、概ね、それがないよりはある人のほうに精神的なゆとりは確保されるのではないかということなのだが、いかがでしょう。
 そもそもユーモアというものが何によって培われるかということを考えるとだ。これは決して面白いものにたくさん触れることではないというのは、自称お笑い好きのヤツが全然面白くなかったりすることからも明らかで、そこに土壌としての要素はなく、つまるところ、それを根拠としていない。どういうことかというと、「面白さ」はあくまでユーモアによってもたらされる一つの結果であって目的や条件ではないということである。では、そもそもユーモアの根拠とは何か。こういう場合たいがい辞書で言葉の意味を調べれば、明確な答えがそこに示されてある。
 “ユーモア【humor】――人の心を和ませるようなおかしみ。”
 そう。ユーモアが依って立つところ、それは「和み」なのである。相手にとっての「和み」、自分にとっての「和み」。要はそれがユーモアに与えられた使命であり、根元になる。ともなれば、ユーモアが緩衝的で潤滑的な役割を含むのにも合点がいくというもんなのだが、ここで立ち戻って考えてみたい。そう。ユーモアが何によって培われるかという点である。
 当然、ユーモアの目的が「和み」であるならば、それを満たすための実践こそがユーモアを育む便法ということになると思うのだが、ボクの思いつく限りだ。この行為こそそれ相応というか、最もプリミティブでお手軽且つお誂え向きではないかと推断する。
 “自虐” である。正確にいうと、“自虐ネタ” をするということ。“自ギャグ” とでもいおうか。
 「人の不幸は蜜の味」という言葉にもみれる通り、相手を傷付けずに和ませることが出来る業であるとともに、自身の憤懣や羞恥といった鬱積、葛藤をうまく消化し緩和することが出来るこの “自ギャグ(自虐ネタをすることね)” こそ、合目的的にみて、ユーモアを醸成させる手段として理にかなう。
 敷衍させれば、ボクは日本人よりも欧米人のほうがユーモアに長けているという印象をもっているのだが、これはひとえに日本よりも欧米のほうがお国柄差別や偏見なんかが強く・深く・溢れているゆえ、自己防衛の常套手段として自ギャグが文化的に根付いているからだと想像していて、この理屈にすがれば、いわゆる日本において自ギャグに窮していないであろう例えば顔がカッコいい男だとか、顔がカッコよくなくても自分を意識的・無意識的にイケてると思い込んでる男、あるいは可憐な女性の多くが、個人的に今一つユーモアに欠けているように感じることにも筋が通り、すなわち、自ギャグの要否やその多寡との関連で説明がつかないこともない。
 判然としない言い回しだが、要は自虐することでキャパは広がり、キャパが広がることで物事に対して広い視野を持つことができ、物事に対して広い視野を持つことで表現に奥行きがでて、表現に奥行きがでることで面白味は増すということで筋道を立てることが出来るということである。
 『タイタンズを忘れない』という映画をご存知だろうか。劇中、デンゼル・ワシントン演じるフットボールコーチのブーンが選手に対して「甘やかすのはコイツらの人生を台無しにするだけだ」と鬼軍曹ぶりを発揮するのだが、結局何事においてもそういう側面はあるもので、自分を痛めつけて耐性をつけていかんとこの複雑な人生、やはりタフには生きていけないということもある。そういう意味でも、自虐ネタをしていくというのは、自分を知り、無理なく自分を鍛えるのに適切なアクションといえるのである。踏めば踏むほどうどんにコシがでるように、自分を貶めれば貶めるほど柔軟性は養われる。かといって、卑屈に陥っては元も子もないのでそこは留意や塩梅が必要になってくるのだが、とにかく、ある程度自虐していかんことには、人間、面白くも寛容にも賢明にもなれんというのが、おおよそボクが見出す見解というか、私感というか、人生観というか、極めて恣意的な思い込みになるのであった。
 そんなわけで、個人的には自ギャグはみんなガンガンしていったほうがいいと思っているわけですけれども、いわんや難しいのはその共有。自分としては精一杯自ギャグしてるつもりでも、相手との付き合いが短ければ短いほど、また、対象が逆にユーモアに欠けていたり、純であればあるほど、マジにとられることもしばしばで、ある程度配慮は必要になる。
 以前、カフェのスペースを借りてイベントをやらせてもらった際に、お世話になったスタッフさんにささやかではあるがイベントで大量に余った自作の缶バッジをあげたことがあった。その時に、スタッフさんが「嬉しいデスぅ〜。カバンにつけまスぅ〜」と目を据わらせながらおっしゃってくれたので、ボクも「いやいや、カバンにつけたらカバンが汚れます。腹の立つヤツの後頭部にでもブツけるなり憂さ晴らしに使って下さい」と渾身の自ギャグを披露したのだが、イベント本編同様、水を打ったようにシラケてしまって、完全に所在をなくす事態に。“ドンマイ、ドンマイ” と自分に言い聞かせながら、気にせず口笛を吹いてやり過ごしたが、その状況を後ろで見守っていた友人に後でこう言われてしまった。
 「本当にそう思って言ってくれたかもしれないのに、あれは失礼だよ」
 トドメを刺すな! と思ったが、おっしゃる通りなのであった。
 無論、自ギャグしたことが悪いわけではない。自ギャグの方向性が悪かったのだ。
 「家宝にしてもらって構いません」とか「家の神棚に飾っといて下さい」とかにすればよかったなと、後で反省したのだが、何にせよ、自虐ネタするにも自分本位では成立しないし、意味がないのである。
 “彼を知り己を知れば百戦殆うからず”。
 どこまで自分を貶めれるか。どこまで相手を慮れるか。どういう表現をすれば相手は和むのか。その熟慮の中にユーモアの種は芽吹き、同時に人間性を磨く好機は宿る。行動の要所はいつだってその過程の中にあるということで、それを端緒に抜かりなく自分を追い込める人間でありたいものです。
 話が取っ散らかってますけど、要するに、ユーモアと人間性とはある種の利害関係にあって、ユーモアがある人は広量だし自分をよく知っているという風に当てはまってくるし、逆にユーモアに欠けている人は狭量で自分に甘いという風に見受けられたりもするので、自虐をもって自己分析、自己批評、自己管理、自己研磨に努めてみたらば、あるいは舵を取り直したり、俗にいう自己実現とかいうものに繋がっていくのかもしれません、というお話でした。
 とにかく、自虐は大事である。
 「自虐」がない人間ほど結果的に「自愛」に走っていたりするわけで。
 そうなってくるともう裸の王様だ。勘違いにも気付けない。
 周りから自分がどう見られてるかということばかりが気になり、自分を良くみせることに執着する。
 つまり、ユーモアを洗えば洗うほどハッキリしてくることでもあるのだが、話をまとめるとこういうことになるのであった。
 “自分を高く見積もろうと必死になる人間ほどしょうもない”。
 当然、自虐なくしては不明を恥じる術もない。


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