『メメント・モリ盛り』


 自分の進む道の先に光があった。
 それは太陽のように目映い順光で、そこに何か希望めいたものを感じながら、ボクは進んだ。
 すると、進むにつれ、そのベタフラのように放射していた光はいつしか光度を落とし、何やら輪郭を帯び始めると、まるでトンネルの出口のようにポッとその先行きをボクに認識させた。
 気付けば、ボクはトロッコに乗っていた。
 トロッコは自動で光の方向へと進んでいて、どうやら、このトロッコを止める術も、降りる術もないらしい。
 進むたび、出口らしいその光はドンドン大きくなって近付いてくる。
 その光の先に何があるのか。皆目見当もつかない。
 期待と不安、恐怖と高揚、興味と当惑......。そして......。

 人にはいつか “その時” が訪れる。
 一般にこれを「死」というが、ボクはこの死というヤツに対して激しい強迫観念をもっていて、日々、大いに翻弄されている。
 日常、身も蓋もないことを言ったり言われたり、見たり聞いたりするのを好む傾向が自分にはあるのだが、その反動というか、ツケが回ってきてるというか、とにかく、メシを食ってても、仕事してても、風呂入ってても、自分がこの世からいなくなるという事実に、抗いようのない居た堪れなさを感じてしまって、折に触れては押し潰されそうになる。
 詰まるところ、強迫神経症の類いなのだが、こういうことを人に話すと、大概その応答はあっけらかん。
 「しょうがないじゃん。死ぬんだもん」
 いや、そりゃそうなんだけどもさ。
 こちとらその理屈だけじゃどうにもならんのである。
 医者に至っては、何かあればウツということでまとめる始末。
 その点、ウディは信頼できる。あ、ウディというのは、ウディ・アレンのことね。
 ボクの見立てでは彼も同じように死に捉われている人で、作品なり本人なりウディが死という概念を前に一人病的なまでに考え込んでいる姿にはボクは大いに救われている。自分の中の毒が薄められるような。孤独が和らぐような。不安が霧消されるような。何といっても、同じようなことを半世紀近く延々続けているところがまた素晴らしい。街の巨匠に感謝である。
 とにかく、30代を過ぎたあたりから、人生というものが何ともいえない緊迫感を帯び始め、映画の中のウディ・アレンのように空回りしているというのが今日のボクなのであった。
 それを象徴する行為としては、ボクは人生というものをよく縮図化して捉えてしまうというクセがある。
 例えば、80歳まで生きられることが出来るとして、その80年間を24時間に置き換えてみたり。また、それを季節に例えてみたりと、そういう余計な短縮作業をしてしまって、一層自分の恐怖意識に拍車をかけているのだが、具体的には、現時点で35歳だから、仮に80年の人生と考えて、それを1日に置き換えたとしたら、40歳でちょうど半分ということで「今は大体午前11時くらいか......」とか「季節でいえば、もうすぐ夏が終わってしまう......」とか、とにかく悲観的に時間を意識しまくりで、その都度焦燥。突っ込んで考えれば、もちろん80歳まで生きれる保証なんて何もないわけだから、思い詰めて捉え直すに、下手したら1日でいうところの今はとっくに夕方かもしれないし、夜かもしれないし、冬かもしれないし...... あぁ! 怖いっ!!!!
 取り乱しました。
 とにかく面倒臭いヤツなのであった。
 そこにきて、今のこの時期である。
 この時期というのは、つまり年の瀬。年末。
 年末のオレはもう殊更に面倒臭い。自分でいうが迷惑だ。これが他人だったら近寄らないで欲しいね、実際。
 なんせ、めちゃブルー。
 というのも、前述の通りいろいろ勝手に思い込んでしまい、「年末」という1年の終わりのこの時期に人生の終わりを連想させられてしまって、ナーバスの極みなのだ。年賀状なんか遺書を書いてる気分である。そんでまた、年を越せば年を越したで、次の年末へのカウントダウンがそこから始まったようでツラく、とにかく時間を意識しまくっている自分にとって、この年末年始というヤツは難儀以外の何物でもない。出来ることなら冬眠したいぐらいだ。ムーミンみたいに。
 そんなボクには猪木のシステムが丁度良い。
 大学時代のある年末。ボクの下宿先で友人達と大晦日の夜を過ごしていたときのことだ。
 年越し前にボクらはTVゲームか何かをしていたのだが、ぼちぼちかなというタイミングでカウントダウンの待機をしようとゲームからTV番組に画面を切り替えると、たまたまつけたそのチャンネルにアントニオ猪木が。どうやら猪木メインの特番らしかったが、「あ、猪木だ」とボクらがちょうど猪木を確認したまさにその次の瞬間。画面の中の猪木が「ハッピーニューイヤー!」と掛け声。からの素人にビンタ。で、なんとすっかり新年の様相を呈していたのである。
 「あれ!? ひょっとして、もう年越しちゃってる!?」
 時間の誤認に焦るボクら。慌ててチャンネルを変え別番組を確認してみると、他はこれからカウントダウンといった調子で、どうもまだ年は越していない様子。
 携帯の時計をチェックしてみる。やはりまだだ。年は越していない。
 “どうなってるんだ!?”
 猪木の番組にチャンネルを戻す。と、猪木側はやはり完全に新年のトーン。
 パニック!!
 もはやカウントダウンそっちのけ。訳のわからぬまま猪木の番組を眺めていると、その番組に出ているアナウンサーらしき人が状況を説明するようにこう実況していたのであった。
 「皆さん! 猪木時間ではもう新年なのであります!!」
 えっ!?
 みんなで爆笑した。新しいルールだった。
 まさか日本の中にも時差があったとは。これはもうさすが猪木としか言いようがない。
 なんせ、他が律儀に新年のカウントダウンをしている余所で、さっさと年を越したことにして、素人に一生懸命ビンタである。
 アメージング。
 燃える闘魂は、時間の概念をも燃焼させていた。
 当然、その後しばらく友人との間で「猪木時間」という時間を勝手に解釈するギャグが流行したのは言うまでもないのだが、それはさておき、振り返ってもあの時ほどあやふやな年越しはなかった。
 あの頃は笑ったが、今となっては心底感銘である。
 あれは時間というものを意識して生きる人々への猪木からのメッセージであり、反骨精神であり、優しさだったのだと捉えるのはきっとボクの拡大解釈なのだろうが、とにかく、個人的には猪木時間を引き延ばして、年末年始ごとあやふやにしてもらいたい今日この頃。
 こんなボクを憐れだと思う人も中にはいることでしょうが、実際、そんな自分勝手で欺瞞的な発想をしてしまう自分のみっともなさには同情の余地もない。が、しかしこれは正真正銘ボク自身。ここに嘘はないのである。
 うろ覚えだが、かつてスピッツの草野マサムネ氏が何かでこのようなことを発言していた。
 「時間を意識してるのって人間だけでしょ。年齢なんかもそうですけど、意識したっていいことないですから。ボクは意識しないようにしてます」
 これはもう意識しまくってる人ならではの発言なのだが、結局、そういうハッタリが必要なのも、年末年始にどんちゃん騒ぎするのも、その時期にしきたりが多いのも、人の中の時間意識、すなわち敷衍させて捉えるところの「死」に対する強迫意識や恐怖意識のなせる業だと個人的には思っているんですけれども、しかしまぁ、そんなご託を並べるまでもなく「死」というものにまつわる諸々に対して人が多かれ少なかれ目を伏せたい思いを抱いているのは、これはもう紛うことなき事実。
 ボクはそれがいささか過剰で問題があるのだが、人は誰しもが、どこかで、それぞれに、死をごまかしながら生きているのである。
 そうして辿り着いた一つのカタチが飽食ともいわれるこの社会なのだ。そして、極めて豊かなこの日本の、情報社会・大量消費のこの時代にあって、草野さんの発言を難なくこなせてしまうというのが今の世の中の有りようで、ボクが一人死に怯えている横で、すっかり幻想ボケしてしまった人達はというと、いつだってスマホ弄りながらやはりこの調子なのである。
 「そりゃ、みんないつか死ぬよ」
 「まぁねぇ。確かに怖いよねぇ〜(鼻くそホジホジ)」
 「死ぬのは全然いいんだけど、家族をおいては死ねないなぁ〜」
 「ダセぇこと言ってんじゃねぇよ」
 「それはね、神様がお決めになることですから(微笑)」
 ねぶたい。全くもって素っ頓狂。
 こういうことを言う連中は、決まって「死」を自分にとってはまだまだ遠い未来のお話みたいに捉えてんだよ。
 まぁ、一緒になって深刻になられたところでそれはそれで辛気臭いので、別にいいんだが、しかし、「死」というものに対して全くリアリティを持たない姿勢には、「死」に対してリアリティを持ちすぎているボクと同じくらいの違和感があって、直面するたび、何か別の不安を煽られるのもまた事実。
 “どんな薬にも必ず副作用はある”。
 “あやふや” な状態というのは人にとって安寧の一形態だが、その裏にもたらされる副作用の影響たるや如何なものなのか。
 人間はこの先、もっともっと自分の中のあらゆる恐怖を薄める作業に没頭していくことだろう。もっともっと何かをあやふやにしなければ儘ならない状況に追い込まれていくだろう。
 手に入れては失い、満たしては減らしのコマ取りゲーム。見えては隠し、覆っては散らすの堂々巡り。
 その果てに一体何があるのか。考えてもしかたがない。が、しかし......。
 ボクらの先にある光の出口は今日も粛々と迫り来る。
 新しい年がまた、やってくる。


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