|   |  
	
	  
	    
		   | 
		   | 
		   | 
		 
		
		   | 
		  
		   
  
		      『例えば友情の話』
 
  
		  
		   同業の知り合いに沼田健さんという人がいる。 
		   沼田氏との付き合いはかれこれ6年ぐらいになるのだが、6年の付き合いの中で彼について理解したこと、それは沼田氏が相当の天然であるということだ。 
		   ボクのすることには一切興味がない人なので万に一つもありえないが、沼田サンがこれを読んでヘコまれても面倒なので、もう少し良さげな言葉に言い換えるとすれば、ピュアとか。そういう感じ。 
		   とにかく、子供のようにストレートな人なのである。 
		   “沼田サンが口走るあらゆることに故意はない” というのが、沼田ファミリーの合い言葉だが、それぐらい外に向かってあからさまであり、且つ、外から受けるあらゆることにナイーブな人で、以前、同業の人達で集まって “友達” をテーマにお話ししていた時なんかも、「友達は幻想である」「友達なんて死語」的な結論を前に、一人傷付いてらっしゃったのも氏であった。 
		   沼田サンという人は、自身も発言していることだが友達がいないらしく、それをまるで実証するかのごとく “友達” というものに対する憧憬を強くお持ちの方で、殊更過敏に反応し、過剰に捉えてしまった部分もあったのだろう。「お前とは友達じゃない」と言われてるのだと勘違いしたようで、急〜に機嫌を悪くして、あからさまにそれを態度に出したあげく、後日相当落ち込んだらしい。まったく忙しい人である。 
		   しかし、いい大人が言葉に振り回されるというのはいかがなものか。 
		   だいたい  “友達” なんて言葉にどれほどの意味や価値や保証があるものか。 
		   世の中には、「友達」といってモノを売りつけてくるヤツだっているし、「友達」といいつつ、妙〜に人のケツばかり眺めてくるヤツだっている。「友達」のはずなのに明らかに面倒臭い用件でしか連絡してこないヤツもいれば、「友達」と謳いつつ、そんな友達の恋人とバッコンバッコンDoするヤツだっている。 
		   要するに、「友達ですよ」と言ったヤツが本当に友達かどうかなんてわからんのである。 
		   目で見て、耳で聞くことが全てじゃない。 
		   その前提には、まず人間が嘘をつく生き物であるという認識が必要であるように、人間というものを過信しないことが重要になる。 
		   こういう否定的なアプローチは、ポジティブ派(「ハイスクール!詭弁組」とボクは呼んでいます)の方々の神経を逆撫でしかねないが、しかし、理想を口にするためには必ず現実主義にならなければいかん。そういう発想も含め、とにかく心の目と耳で捉えることだ。 
		   大切なことは、実感をもって、物事の本質を見通す努力を怠らないことなのである。 
		   とはいえ、確かに人間が言語領域で調和している部分があるというのも否めない。 
		   では、あえて理屈的に言葉にするのであれば果たして “友達” とは何なのか。“友情” とは何なのであろうか。 
		   少年時代。ボクにはリョウくんという友達がいた。 
		   小2の始めに転校した先の学校で同じクラスになったのが出会いだったのだが、それから小学校を卒業するまでずっと同じクラスで、何をするにもいつも二人ベッタリ。クラブも同じだったし、体操やエレクトーンやそろばんやバレーボ―ルと、習い事も全部同じ。家も近くて、休みの日もいつも一緒に遊んでいた。いうなれば親友。 
		   何十年も前の話なので多少は美化されているかもしれないが、とにかく誰にでも優しくて、穏やかな良い少年だったことをよく覚えている。だからケンカをした記憶もほとんど皆無なのだが、ただ、一度だけ。これはもう鮮明に覚えているのだが、リョウくんと些か気まずくなった出来事があった。 
		   あれは確か小3だったか。何てことない学校生活でのワンシーン。 
		   給食を食べ、昼休み後、5時間目の授業中でのことだった。 
		   ボクが通ってたその学校の近辺ではその時間になると週のサイクルで度々バキュームカーがやってきて、窓を開けてようが閉めてようが、臭いが教室中に漂ってくるということが定期的にあったのだが、その日もどうやらいつものようにバキュームカーがやってきたらしく、教室内に異臭が発生。 
		   その当時、席も隣り同士だったボクとリョウくんはというと、このバキュームタイムをネタに息抜きするのをお決まりごとにしていて、バキュームカーがやってきては二人で「屁〜こくなよぉ〜」「お前こそ〜」みたいに冗談を言い合って楽しんでいた。ので、その日もいつものようにリョウくんとのルーティンを楽しもうと、教科書に目を向けつつボクが小声でリョウくんに向かって声をかけたのだが......。 
		   「ヘイヘイ、家で何食ってきてんだ〜? リョウくぅ〜ん!」 
		   先手を取りクスクスしながらレスポンスを待つも、いつも即座に返されるリョウくんからの応答がないのである。 
		   あれ? 聞こえなかったかな? 
		   もう一度声をかけてみる。 
		   「クラスメートを殺す気ですかぁ〜〜?!どうぞ!」 
		   シーーン......。 
		   ただの屍のように返事がない。おかしい。 
		   チラっとリョウくんのほうを見てみると、フツーに教科書をみて授業を受けているではないか。 
		   シカト!? 
		   いや、待て待て。リョウくんに限ってそんなはずは......。あっ、ひょっとして、そういうパターン?! あえて無視的な。な〜るほど。コイツめぇ、アジなマネを。 
		   な〜んて、勝手に感心していたその時だった。 
		   一見、真面目に授業を受けている様子のリョウくんがチワワのように小刻みに震えていることにボクは気付いたのである。 
		   リョウ...... くん!? 
		   勘のいい人はバキュームカーの前フリからとっくにピンときてることでしょう。そうなのである。震えるリョウくんの異変に気付いたボクが視線を落としたらば、椅子から腰を浮かしているリョウくん & ガー糞(フン)クル。椅子の上にはなんと、リョウくんの短パンの隙間から大量に零れ落ちたドロドロのアレが!!!!! 
		   ヒェーーーーーーーーーーーーーーー!!!!! 
		   要するに、「“リョウくんウンコをもらす” の巻」なのであった。 
		   事件は会議室じゃなく現場というか、隣で起きていた。 
		   なんたる衝撃。小学生あるあるなのだろうが、学校でクソをすることに対するあの時分の羞恥心たるや、凄まじいですな。 
		   “授業中トイレに行って揶揄(からか)われるぐらいなら、漏らしたほうがマシ!” ......とは思っていないだろうが、なかなかの本末転倒っぷり。まぁ、そういう訳分かんなくなっちゃってる感じは子供然としていて実に愛らしい部分ではあるのだが、とにかく、あの時オレの隣でリョウくんは完全にクソを漏らしていた。 
		   まだ誰も気付いていない。ヘタしたら、リョウくん本人も気付いていないのかもしれない。(それはない) 
		   ボクは衝撃も醒めやらぬまま、頭をフル回転させた。そして、リョウくんを想い、心の拳を握りしめた。 
		   “ここはリョウくんの親友として、オレがまず動かなければ!!” と。 
		   “リョウくんは...... リョウくんは...... オレが守る!!!!” 
		   そしてボクは行動にでた。 
		   リョウくんのクソを前に、クソデカい声でこう言葉をかけてあげたのだ。 
		   「ギャーーーーーー! くっせぇぇーーーーーーーーー!! リョウくんがウンコ漏らしてるぅぅぅ〜〜〜〜〜〜〜!!!!」 
		   冷やかす。 
		   いや〜、まったく隅におけないオレである。 
		   子供っちゅーのは、モノを知らんがゆえに純粋であると同時に残酷な生き物でもあるが、この状況でするかね? そんなこと。 
		   リョウくん。あんたが今どこで珍しい粉を捌いて生きてるか知らんが、ここで改めて謝る。ホント、ごめんね。そして、掘り返しちゃってゴメン。 
		   しかし、当然悪気があったわけではなく。何というか、個人的には『オデッセイ』という映画で、訳あって何年も風呂に入れない状況に陥ったマッド・デイモンに対して、その深刻な事情を知ってる仲間がマッド・デイモンを前にした時に「オマエ、随分クサいけど、どうした!?」と言って声をかけてあげる感覚というか、要するにイジッてあげることこそ救い的な意識だったと思うんスよ。けど、いかんせん子供でしたから。経験がないというかね。共感性に欠けるというか......。まぁ、でも、ヒドいね。うん......。 
		   とにかく、ボクのその絶叫 & 報告で教室内は完全にパニック・ルーム。 
		   顔を真っ赤にしたリョウくんは先生に連れられ保健室へと運ばれていったのだった。 
		   “リョウくん...... あとはまかせろ!” 
		   “掃除屋「ウルフ」” の異名を持つボクを中心にブツを処理し、その日はそのまま下校時間に。 
		   当然ボクとしては友情を尽くしたつもりでいるものですから、いつものように一緒に帰ろうとリョウくんの戻りを待っていたわけだが、換えのパンツに履き替えて保健室から戻ってきたリョウくんはというと明らかに様子がおかしかった。陽気に声をかけるボクを前にしてだ。なんと、そっぽを向くのである。(当たり前だっつの) 
		   “リョウくんが怒ってる!” 
		   気付いたよね。というか、正直、あの時ウンコを漏らしてるリョウくんを見て叫んだ瞬間に、“これは違うかも!” と、うっすら感じてたと思う。 
		   だからこそ、ボクはリョウくんにすぐに謝った。「ごめんね」と。アレが原因ですよねと。リョウくんの気持ちも考えないで申し訳なかったと。平謝りである。 
		   言葉が届いているのか届いていないのか、黙ってランドセルに荷物を入れ、帰り支度を始めるリョウくん。 
		   完全に怒ってる......。 
		   友情が瓦解する危感を漠然と感じながら狼狽していると、荷物をまとめ終えランドセルを背負ったリョウくんがボクのほうを見た。 
		   そして次の瞬間。怒った口調でボクに向かってこう言ったのである。 
		   「帰ろ!」 
		   えっ! 
		   今、陛下は何と!? である。 
		   こんなにも優しい「帰ろ」がこれ以前やこれ以後にあっただろうか。 
		   そう。つまり、リョウくんはボクを許してくれたのだった。 
		   おそらく抱いてたであろう怒りを飲み込み “もういいよ” と。“さっさと帰ろう” と。温情を施してくださったのだ。 
		   あんなミステイクをおかしたこのボクに......。 
		   いいひと。改めてリョウくんに謝罪である。ほんとゴメンね、ウンコマン。 
		   ベン・E・キングの『スタンド・バイ・ミー』をバックに、二人で線路の上を歩きながら下校し、これにて一件落着。仲直り。 
		   子供だからこそこれだけ寛容でシンプルということもあったのだろうが、ともあれ、リョウくんの “許し” によってステイ・フレンズ。ボクらの関係は保たれた。 
           要するにだ。ボクの見出す “友情” の本質がここにあるのであった。 
		   そもそも、人と関わるということは、迷惑をかけることであり、かけられることにある。 
		   リョウくんにおけるボクがそうであったように、友達だからといって自分の思い通りに相手が動いてくれるわけでもないし、100%自分にとって都合のいい存在で居続けてくれるわけでもない。自分にとって全ての他人はいつだって迷惑な相手になり得る、いや、迷惑な存在なのである。 
		   例えば誰かのことを褒めたり、尊敬したり、祝福したり。そういうピースな関わり合いもぱっと見にはある。が、仮にそういう評価を本心で相手にしていたとしても、みんな自分でも気付きようのない心の奥底ではこう思ってたりするものだ。 
		   “消えちまえ” と。 
		   それが人間である。 
		   自分に限って絶対そんなことはないと思っている人がいるとすれば、そんなヤツはアホである。あるいは、人間だと勘違いしてるホイミンか何かか。 
		   ユングの言葉に “集合的無意識” というものがあるが、つまり、そういう次元にボクたちは絶対的な傲慢さを持っていて、自分以外の他人なんていないほうがいいと隙あらば思ってしまうシステムになっているのだ。 
		   だからこそ、“許容” が必要になる。 
		   映画『クリード』で、父親に恨みを持ちつつも家族というものに強い憧れをもつ主人公に対して、スタローンもこう言った。 
		   「許してやれ」と。 
		   実際の人と人との繋がりとは、きっとそうやって自分を保ちながら、折り合いをつけながら、バランスをとりながら築かれていくものなのではなかろうか。 
		   他人の悪いところを許してあげる。他人の良いところも、本来であればそんな良いところを持っているヤツは気に入らないけど、許して認めてあげる。 
		   友達とは、自分の “家” の、さらに自分の “部屋” にあがることを “許可” してあげられる、そんな相手のことなのだとボクはそう思うわけである。 
		   “何、分け分かんない講釈を垂れているんだコイツは?” と、ここまで読み進めてこられた皆様はそうお思いのことでしょう。 
		   おっしゃる通り。 
		   理解する必要はまったくないです。こういうモノの捉え方は人それぞれでいい。 
		   ただ、冒頭部分で「人間というものを過信しない」と打ち出したが、要は何よりもまず自分という人間を過信しないことなのである。『もののけ姫』でいうところの、曇りなき眼で(自分自身を)見定めることが出来れば、あるいは、物事を見通す目というものが培われるかもしれないので、皆様におかれましては是非、自己批評を積極的にされることをボクはオススメします。 
		   というわけで、最後に一言。 
		   ボクは今まで幾人かの旧友たちとのエピソードをここで何の許可もなく散々ネタにピックアップしてきたわけだが、これに対して当人に失礼だとか迷惑だとか、ボクの人間性を疑われている方も多くいらっしゃることでしょう。 
		   当然ボク自身そういう可能性を度外視したことは一度もないわけで。本人が目にして不快に思ってしまうのではないか、ましてや傷つけてしまったらどうしよう、そういう想いにパソコンのキーボードを打つ手が止まることもしばしば。それでもこうやって結局ネタにして取り上げるボクを鬼だとか悪魔だとかクズだとか目が殺し屋だとかヘイトフル・ニシノだとかオナニーおじさんと呼びたければそう呼んでもらっても構わないのだが、ボクの中にある想いはただ一つ。 
		   それは、ボクがみんなとの友情を今も信じているということなのです。
 
  
		  
		   | 
		   | 
		 
		
		   | 
		   | 
		   | 
		 
		
		  | 
		    #12『How to 嘘』  <    
		    |  MAIN PAGE  |
			    >  #10『山椒魚の世迷い言』
		   | 
		 
	   
	 | 
	  |  
	
	  
	 |