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『バランスでアンバランス』
人間はバランスの生き物である。
相反するものを抱えては、その均衡をとるが如く様々に作用し、反映する。
例えば、男がなぜ女を求めるかといえば、それが男にとって失われた性であるからだし、また、なぜ女子アナが往々にしてスポーツ選手とくっつくかといえば、これも美と知という自分が持っているものとは逆の資質に対する憧憬や願望に依る。
他面、ストックホルム症候群というものがあるが、ああいう現象にみられるような翻りも、“支配されている” という屈辱感や恐怖を、犯人に “共感する” あるいは “協力してやるんだ” といった方向へ心理状態を立て直す(自己欺瞞する)ことで和らげようとしている背景に基づくし、人が他人の不幸話なんかが好きなのも、自身の劣等性に起因する。
無論これらはあくまで一部の傾向であり、且つ憶測の域を出るものではないのだが、しかし、実際こういったバランスの構造は極めて多岐にわたって人の中で様々な体系を成しているもので、人間というのはあらゆる局面でその妥当性、整合性を保つかのようにアクションを起こすものなのである。
会社員時代。当時働いていた会社の営業にTさんという風俗大好きの先輩がいた。
そのノメり込み方は、もう “Everyday Everynight 離したくはない” のT-BOLAN状態で、Tさんは毎日夕方ぐらいになると決まってオフィスのPCで風俗サイトにアクセスし、お店のリサーチ&チョイス、女性の選別を始め、その日の夜のハッスル先をウキウキウォッチング。あげく概ねフィックスさせれば、脂ぎったエロ顔で、毎度ボクや営業の後輩達にこう言い回る迷惑人。
「はい、一緒に行くひと〜!」
めんどくさいパイセンなのであった。
一人で勝手に行きゃ〜いいのに、まるで連れションの相手がいないと用足し出来ない人かのごとく、なぜか必ず一緒に行く相手を探し求める寂しがり屋さん。
彼の後輩であり部下であるボクの同期の営業達なんかはもはや強制的に駆り出されていて、気の毒だなぁ〜なんて思ったりもしてたのだが、とはいえ、後輩側は後輩側でみんな迷惑がったりイヤイヤ言いながらもどこか喜んでお供している節も見受けられたものだから、この辺りにもまた何か一つの心理的バランスの取り方のようなものがあったんでしょうかね。
かく言うボクはというと、おこちゃまでしたから。今もですけど、風俗なんてあまりにも高すぎるハードル。おまけに潔癖。デザインチームだったので直属の部下でなかったことをいいことに、毎度素気無くお断りしていたのだが、するとある日、Tさんが一生懸命残業するボクの肩をモミモミしながら出し抜けにフレームイン。同伴相手がどうにも見つからないといった調子で、改めて確認してきたのであった。
「ニシノ選手ぅ〜。ニシノ選手は、おっパブなら、アリぃ?」
とにかく執念の人なのだった。
そんなわけで、三度のメシより風俗が大好きなTさん。オフィスが入っているビルには喫煙スペースがあったのだが、自分が一服する時には必ず下部(しもべ)達を引き連れ、また、誰かが一服する時には必ずキングボンビーのように後になってくっついてくる、そして、缶コーヒーをすすり、タバコふかせながら毎度毎度人を巻き込んで繰り広げ続ける地獄の風俗店トーク。まるで美味しいカレー屋さんのお話をするが如く、昨夜の風俗店エピソード&今夜の風俗店スケジュールなんかを臆面もなく下品な声で炸裂させまくるエブリデイだったのだが、そんなTさんにだ。ある日異変が起こる。そう、その時歴史が動いた。
ボクはタバコは吸わないが、喫煙スペースに自販機もあったので誰もいない時はそこで缶コーヒー片手によく息抜きするということをしていて、その日も仕事にウンザリしながら一人干からびていたのだが、そこへ狙ってか偶然か間の悪いことにTさんがやってくるという面倒が発生。ここで、「じゃ、お先失礼しま〜す」と言ってさっさと立ち去れるほどボクの神経も図太くなかったので、必然的に “Tさんとの時間をしばし共有するの刑” がここに執行される事態と相成ってしまい心中ゲンナリしたわけだが、その日のTさんはいつもと様子が違った。
「あ、ニシノ選手。こないだ発注したチラシのデザインだけど、どうだろう、明日までにあげれるかな?」
マジメか!
いや、もちろんマジメで結構、突っ込むのもおかしな話なのだが、しかし、いつもだったらだ。来るなり不気味な笑顔を浮かべながら開口一番「グフフフ。昨晩もワタクシ、行ってきましたよ......」から始まり、「嬢の顔はね、正直いまいちだったんだけどぉ〜......」を経過して、「即尺からのチングリ返しでハイボール飲んでウィー!」ってな報告をかまされて、「今晩は久しぶりにクリマジ(クリスタルマジック)行っちゃいま〜す」という聞いてもない予定を宣告されるというのが、もうほとんどお決まりのトークのはずなのである。
なのに、この風俗大王ときたら柄にもない。いっぱしのビジネスマンのフリなんぞして......。
こちらの動揺を余所に、その後もタバコを吸いながら延々仕事の話をするTさんを前にすっかり違和感MAXでいたボクはというと、なんかもうむしろ怖くなってきてしまったので、おもわず自ら誘い水。
「それはそうと、Tさん、今夜もピンサロ行くんスか?」
するとどうだ。吸い込んだタバコを細〜く吐き出しながらTさん、半笑いで応えたのである。
「いや、オレを風俗キャラみたいにしないでよ」
アンタ正気か!? と思ったが、そんなボケすら今はもうどうでもいい! 話にも乗ってこないわけでこれはもはや完全に異常事態である。
ボクは事のあらましを外回りから戻ってきた同期である営業のMに即報告。すると、Mの口から伝えられた新事実によって異常事態の謎は即解明された。
「あ、ニシノくん聞いてないんスか? Tさん、性病もらったんスよ!! ブハハハハ!」
わかりやすい人である。
ナーバスというかデリケートというか極端というか。
とどのつまりが、ハデに性病をもらったことによる自重なのであった。
Mが言うには、性病くらってからというものドえらく神妙になってるようで、メシもろくに喉を通ってない様子らしい。傾き方が過剰であった分だけ、その反転も過剰になるということか。
あだち充の『ラフ』という漫画の中でも、競泳自由形の日本記録保持者で人格者である仲西弘樹というキャラが、交通事故をきっかけに競泳生命が断たれそうになると、一気にイヤ〜なヤツになるという描写があったが、その際、仲西が自身の変化についてこんな風に語っていたのが思い返される。
「いつもイライラして怒りっぽい嫌なヤツになったろ。だが、変わったわけじゃない。仲西弘樹から自信と余裕をとったらこうなったというだけさ」
まさにTさんも余裕を失ったファイターだったのだろう。
案の定とでもいおうか、その後しばらくTさんの言行から風俗にまつわるエトセトラの一切が消えたことは言うに及ばずで、かくして我々後輩にとって束の間の平和は訪れたのであった。
常々思うことではあるが、“余裕” は大切である。余裕がないと、心や体、感性、あらゆることが窮屈になる。いわゆる人格なんてものがその人の持つ “余裕” の度合いに関連していることはまず間違いないわけで。我々が日々頑張っているのも、一つには “余裕” を確保することがその目的に含まれているともいえよう。
しかし、「反動形成」という言葉もあるが、“余裕” が減れば “切迫” が増えるのは、もはや足が地に着いていない(確固たる根拠を持ち得ない)人間の悲劇とでもいうべきか。結局、そうやって何かを失ったり、取り戻したり、何かが出現したり、消失したり、そういう連続の中で、ボクらは意識的かつ無意識的に自分の中のバランスを保つかのように帳尻を合わせながら生きていくしか術はなく、なんというかまぁ、人生というのは複雑怪奇でしち難しく、それゆえ、逆説的には実にアンバランスなものなのであった。
先日、同業の沼田健さんと室木おすしさんとトリバタケハルノブさんとボクといういつものクズ4人で集まって、傷を舐め合うようでお互いの傷口に塩を塗りあうようなトークを繰り広げていた際、“ある一人の漫画家さんを全員で羨む” という、これまたどうしようもない話題で地球上の負を吸引するという展開になった。
その漫画家さんというのが、我々も一応面識のある “死後くん” という『らんま1/2』的に表現すれば、渡辺麻友(まゆゆ)にお湯をかけたような人のことだったのだが、とにかくトリバタケさんを筆頭に、沼田さん、室木さんとも死後くんを大絶賛。世間一般、その場にいない人の話題となれば大抵悪口になるようなところをベタ褒めともなれば、これはもうホンマもんの評価である証拠。
もちろんボクも死後くんには、ここにいる三人の先輩方には示したことのないような好意と敬意をもっているのだが、では、なぜ死後くんがこんなにも人々に好意的に受け取られるのか? ということを考えると、これは決して良い作品を作り続けているからでも、影響力があるからでも、お金を稼いでいそうだからでも、顔がまゆゆ似だからでもないというのがボクの見解でして、つまりが、人としてバランス感覚に優れているということにあるのであった。
例えば、ボクなんかは、基本的に自分自身にある罪悪感から絵を描くことを生業にしている人全般に対して嫌悪感を持っていて、それは、近年の絵描きのもつ自己顕示欲だとか名誉欲だとか物欲といった俗物根性やプチブル根性、無責任さやエゴイズムに基づいていたりするのだが、しかし、傲慢な言い方をさせてもらうが、絵描きというものに対してナーバスであるボクを以てしても死後くんからは俗悪さや不快感を受け取ることがないわけで。
思うに、これはきっと死後くんの中にある「表現をする」ということに対する「謙虚さ・敬虔さ・真摯さ」といったようなものが、絵描きなら誰もが有する俗欲や身勝手さみたいなものを相殺しているからだとボクは分析していて、要するに死後くんの中のそういう一つ一つのバランスの有りようが、他者のバランスを揺るがすことなく存立しているという点にその特筆性が推断されるのである。
話は飛ぶが、皆さんは星野源をご存知か。ご存知ですよね。
最近、巷では何やら星野源の評価が妙に上がっている様子が窺われる。
その手の情報に鈍くなってしまったので、それが以前からそうだったのかどうかボクの中で定かではないのだが、自分の周りにもその余波が及んでいて、ついこないだまで瀬戸康史や千葉雄大あたりを対象にキャーキャー興奮していた連中が今じゃすっかり源ちゃんLOVEときたもんだから、『タイガー&ドラゴン』でその歴史が止まってるボクとしては一体世の中でどういう価値転換が起こってるのか驚きを隠せないでいたところ、また例のごとく同業の集いがあり、そこにたまたま星野源好きを公言するカツヤマケイコさんという女性の方がいらっしゃったので、その道を説いてもらうことに。
すると、カツヤマさんはその理由を自身の価値観からこのように論じられたのであった。
「ワタシ、もともとホトちゃん(雨上がり決死隊)みたいな見た目の人が好きやから」
ダメだ、この人は!! まるで参考にならない。何なんだよ、ホトちゃんの見た目が好きって!!!!
しょうがないので、この件に一切興味のない室木さんに頼って弁証法的に話を煮詰めてみたところ、結局、辿り着いた結論というのがこれだった。
“いい塩梅”。
ちょ〜どいいのである。
つまりは死後くんと同じだ。星野源もまた、諸々のバランスがヒジョ〜によろしいといったところで、やはりバランス感覚の良し悪しがもたらす人間性への影響たるや侮り難し。
ともなれば、どうやったらバランス感覚のいい人になれるのかというお話にもなってくるのだが、これがなろうと思ってなれるもんでもなく、且つ理屈で単純に説明のつくことでもないからして、やはり彼らは非凡ということにもなるんでしょうけど、ただ、自分を知ることである程度コントロールすることは出来るだろうから、“とことん自分を見つめる” という作業は足掛かりとしては推奨できるのかもしれない。個人的な見解ですけど。
が、当然この自分を見つめるという作業においても、生半可な見つめ方ではなく、自分にとって非常に都合の悪いこととがっぷり四つで向き合うことが要求されるので、一筋縄ではいかないことは間違いなく、厄介であること夥しい。
しかし、玉乗りや綱渡りといった曲芸をイメージすれば理解出来ることだが、バランスをとるというのは一つの能力なのである。
誰もが持ち得るものだが、人に差があるのは当然で、卓抜するにも労を要する。たやすいはずがない。
ゆえに、人生もまた然りなのだ。
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