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『井の中の蛙』
『セックス・アンド・ザ・シティ』という海外ドラマで、劇中、NY在住の主人公の女性がロシア人と恋に落ち、その男性にパリに一緒に行こうと誘われ、割に平然とフランスにお引っ越しして同棲生活を始めるというシーンがある。
これはボクみたいな閉鎖的な人間からしたらだ。なかなかのポカン案件、いわゆるカルチャーショックというヤツで、いろんな意味でぶっ飛んでるなと、呆気にとられざるを得ないのであったが、海外の映画やドラマなんかを観ているとこういう展開はよくあることで、登場人物達が何の躊躇も情緒もなくすんなり国を渡ったりするものだから、自分の矮小さをふと実感させられたりする。
まぁ、細かい部分をほじくり返していてもキリがないということで、映画やドラマに関しては単につぶさに描かれていない(描き方が自分には物足りてない)だけかもしれないが、とはいえ実際、ボクの知る外国の方々も仕事だ何だと世界を股に掛けて行ったり来たりしていたりもするものですから、その行動範囲が自分のそれとギャップがあるのは間違いなさそうで、とにかく、主観的な印象としてなのだが、外国の人というと、相対的には鎖国していた系譜に連なる我々日本人よりも、はるかに間口が広いというか、いかにもワールドワイドで、またそれが日常的であり、フットワークも実に軽快なイメージがするのであった。
ボクなんかは吉祥寺から渋谷に出るだけでも違和感を抱くというか、心許ないというか、切ない気持ちになってドキドキしてしまうもので、たま〜に夜、ご飯に誘われて外出し、待ち合わせの場所に移動するのに駅のホームで電車を待っているときなんかでも、えも言われぬ寂寥感に襲われたりなんかして猛烈に帰りたくなったり――と、ホントに狭い世界で縮こまって生きているなという感じバリバリなんですけども......。
とはいえ、『海の上のピアニスト』同様、これはこれで自分の安定のためにおそらく致し方のないことなのであり、今のボクのキャパそのもの、差し当たり半径数メートルを大切に生きていくのが自分の性に合っているというところで納得せざるを得ないわけだが、それでも、“ここではないどこか” を激しく求めている自分というのもやはりいるらしく、映画の中で平然と繰り広げられるフライ・アウェイぶりにはどこか憧憬もあるわけだから、溜め息もでたり。
二律背反――というと、もういちいち大袈裟だが、要するに話をまとめるとだ。たまにはどっか行きたいアイ・マイ・ミー。
そこで昨年、一大奮起(大袈裟)。自分の二律背反と向き合うべく(大袈裟)、勇気を振り絞って何年かぶりにアリアハンから出てみることに挑戦(大袈裟)。11月に京都、12月に軽井沢に行ってきたのであった。
いざ行って痛感したこと。
“旅慣れてねぇなぁ......オレ”
そう。一人で勝手にバタコさん。考えなし。行き当たりばったり。しどろもどろ。
自分は予定や計画を立てたり練ったりするのが本当に不得手なんだなと。再確認&落胆。
それでも久しぶりの遠出に、割に高揚している自分というのも確かにいたもので、やっぱりこういうことをどこかで求めていたんだな――と。人間的な自分に自分で微笑。
京都へ行ったのはかれこれ8年ぶりであった。街そのものはなんにも変わってなかったが、8年という歳月のせいかアレコレえらく新鮮に映り、大したもんでもないとかつて切り捨てていた “にしんそば” すら堪能するというニュートラルっぷりで、非日常感をそれなりに満喫。
軽井沢へは今回が初。想像していたよりも遥かにこぢんまりしていて、オフシーズンで閑散としていたことも相俟ってか、何とも侘しい印象だったが、夏が避暑地なら冬は避人地としてもってこいな感じでこれまたそこそこリフレッシュ。行った日がかなりあたたかい日だったのでジョン・レノンがちゃりんこで走り回ってたというエピソードに倣って、ボクも自転車を借りてサイクリング。乗って5分で太ももが悲鳴。山に迷い込み、坂道を無理に立ちこぎしたせいで呼吸を乱し、心臓が破裂しそうになってあわや瀕死のバイシクル・レース。自分の歳や運動不足を改めて実感して落ち込んだ。が、こうした発見や確認が出来るのも旅の醍醐味といえば醍醐味といったところで、要するに、喉元過ぎれば何とやらなのであった。
......なんてことを言いつつも、しかし、2回の旅行を通して喉元に引っ掛かかったものもやはりないことはなく。
それは旅行中、自分が何度も何度も同じセリフを繰り返し口走っていたということに端を発しているのだが、そのセリフというのがまた実に自分という人間をよく表していたもので、喉元に引っ掛かったうえに、思わず息が詰まったというか......。そのセリフというのがこの一言なのであった。
「せっかくだから」
めちゃくちゃ言ってたのよ。これ。
記憶としては、小3の時の茶魔語(@おぼっちゃまくん)以来の乱用ぶり。
自分で言ってて自分で気付くぐらい。とにかく何かにつけてこのセリフを取ってつけてるオール・ザ・タイム。
食い物を前にして――「せっかくだしさ」。
ちょっとした観光スポットを前にして――「せっかくだもん」。
お土産を前にして――「せっかくなんだから」。
完全に “せっかく星人” になっていたのである。
これが『王様のブランチ』の買い物の達人でNGワードだったら、おそらくスタジオが凍るほどマイナスをくらってること必至。
それぐらいほとんど無意識で発していたわけだが、一緒に行った連れ合いも人の連呼を嘲笑してた割に、全く同じようにこのワードを繰り返していたのだから、ひょっとしたら旅行あるあるなのかもしれない――なんてことを思ったり。
さておき、とにかく執拗なまでのこの言動から自分という人間がどんな人間か、完全に思い知らされてしまったのだった。
どういうことか? こういうことである。
自分は “何か理屈をつけないとろくすっぽ行動に移せない男”。
“Not レット・イット・ビーな男”
“何かに対する興味・関心がほとほと稀薄なナルシシスト”
“旅行すら純然と楽しむことができないつまらない男”
“ショーウインドー越しにふと自分をみて思ったんだけど、顔付きが殺し屋”
“基本的に冒険心というものがない臆病者、腰抜け、小人物......”(以下略)
ぷはぁ〜。
参ったよ、まったく。
実際面食らった。
映画『スリー・ビルボード』さながら、サム・ロックウェルに出し抜けに2階の窓から放り投げられたような。
スト2でトドメの一発食らって「うわぁ...... うわぁ...... うわぁ...... うわぁ......(ディレイ)」みたいな。
わかっちゃいたけど、何ともまぁ〜みじめなこの実情。現実。人間性。
先にいろいろな発見や確認が出来るのが旅の醍醐味と記したが、自分が狭い世界に閉じこもる理由というのもまさにここにあることをも再確認。
そう。こういうことがあるから外の(広い)世界は恐ろしいのだ。世の中、“知らぬが仏” なんてこともあるわけでね。
「井の中の蛙大海を知らず」とはよくいわれる言葉だが、その言葉の後に「されど空の深さを知る」なんていう肯定的な意味の言葉を無理矢理くっつけた人の気持ちを、ボクは痛いほどよく理解する。差し詰めボクのような弱く偏狭な人間だったに違いあるまい。
要するに、全てはその時々の “自分の都合” に準ずるのである。(井の中の蛙が、大海を知りたいと思うも思わないも、大海に出るも留まるも、どっかのイラストレーターがさも自分の考えが絵描きの基準と言わんばかりにきれいごとを並べて他人の仕事に難癖をつけるもつけないも。それをこうしてさりげな〜く皮肉るも皮肉らないも。)
ただ、それを理解し、自覚しても尚、“ここではないどこか” を求める自分が尽きることもないものだから、井の頭(東京都三鷹市)の中に閉じこもっている蛙はというと、今日も混沌としている。
とりあえず思うことは、井を深く・高くしてしまって出れなくなるなんてことがないようにはしたいということ。
望む望まざるとにかかわらず、行き来出来るようにはしておきたいものである。
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