『選択の功罪』


(※冒頭部分は3月頭に書いたものでして、内容がかなりズレたものになってますが、そういうことを引っ括めてのリアリティということでそのまま載せてます。悪しからず――。)

 マスクが飛ぶように売れているようである。
 ご承知の通り、例の新型ウイルスの影響ということで。
 お恥ずかしながら、ボクという人間はナルシシズムやらコンプレックス過多が高じて、ネットやらテレビの情報を避けまくるという愚鈍ライフをおくっていますもので、世間がそんなことになっているなんてざっくりとは把握していても派生した事柄については人づてに教えてもらってようやく “へぇ〜ボタン” を押す有りさま、かなり鈍臭い様相を呈してしまっていたわけなんですが、とにかく今世の中ではマスクが売れまくっていて、さらには食料品やら日常品の買い占めまで起こっているとのことである。
 すごいね。いや、別に正常性バイアスだか何かがかかって冷静を装っているわけではないのだが、何というか、確かに病気そのものも然ることながらその蔓延は非常に怖いことだし軽視してはいけないことなのだけれど、こういうことが起こったときの人間の取り乱し方ないし盛り上がり方(っていう言い方は不謹慎扱いされそうですけど)たるや、まだ何処か対岸の家事気分でいる自分としては、相変わらずだなぁ〜と思ってしまうというか。人間が理性的な生き物だなんてこれっぽっちも思ったことはないが、ほんとに薄皮一枚なんだなということをまざまざと痛感。とにかく、自分のこういう逆張りのような冷ややかでノンキな態度(文章)も込み込みで、何とも見るも無残な感じが否めない。
 とはいえ、このウイルスがこっから拡大してもっと危険な状態になってしまって、自分の身の危険メーターが欽ちゃんの仮装大賞の得点ゲージみたいにグイグイ上がってきて、「もう1点入れてあげてよぉ〜」なんて欽ちゃんが余計なおねだりして合格ラインならぬデンジャーラインに入ってきちゃったとしたなら、ボクだってそんな高みの見物みたいなアホなことは言うてられんわけで。結局、そのメーターのメモリには個人差があって、身の回りの事情を考慮する審査員のジャッジもあれば、欽ちゃんの気分もあるというところで(どういうこと?)、人の取り乱し方というか、事の当たり方に対して他人がどうこう言うたところでどうしようもないし、双方が双方に意見したところで個人の考えや行動に大きな変化をもたらすことができるはずもないというのが実際のところなのだろう。絶対則なんてないわけで、あらゆることは所詮観点の違いにすぎないのだから。強要すれば反発も起こるし、軽く見れば弾劾もされる。綺麗事を言おうが、皮肉を言おうが、冷静に状況を分析しようが、どの立場にたってどんな態度をとったところで自分の慰め以外の何ものにもなり得まい。
 ともあれ、マスクである。
 『ボウリング・フォー・コロンバイン』という映画でマリリン・マンソンも言っていたが、「人はメディアに恐怖を詰め込まれて消費する」というまさにそれを地で行くような恐怖と消費のリレーション。聞くとどうだ、フリマサイトなんかではバカみたいに高い値段でマスクが売られているらしいではないか。それでも買う人がいるというんだから、なるほど、市場でのマスク枯渇は明らかであり、実際、薬局やスーパーの店頭ではご丁寧に「マスク売り切れてまっせ」のウェルカムボード。
 状況を反芻するに、風邪とか花粉症とかマスク使用のハイシーズンにあってここまでマスクがないとなると、そういう症状の人が今年になって急増したというわけでもないでしょうから、とにかく新型ウイルスを前にいろいろ気を揉み、抑止の意味も含めた “予防” の観点でマスク購入に奔走している人・集団がメチャいるということなんでしょうな。プラス、社会が何かそうやって一つのまとまった空気を帯び出してくれば、和を重んじる日本人としてはある程度協調性を示す姿勢をみせなければ据わりが悪いということもあるでしょうから。そういう要素が手伝う部分ももちろんあったり。
 ただ、こうなってくると怖いのが異端狩りといいますか。協調性を重んじる方々はもちろんのこと、“予防” の観点から取り急ぎ “自分の身を守るため” にマスクに固執している人なんかも、このまま事態が終息せず悪化していけば、自分の身を守ることだけに終始せず、“マスクをしないヤツがいるせいで病気が蔓延し、終息しない” という風にある種恣意的に帰結して(もちろんマスクを何らかの理由でつけていない人が、逆側に対してそういう偏見を抱くのも恣意的だが)、マスクをしない人を総じて協調性のない独善的な人間とみなして悪者扱いするとか攻撃するとかいうことになったりして。『ミスト』という映画の人間模様さながら、いくとこまでいけば、マスクをしていないだけで警察に通報されたり、村八分にされたり、バットでぶん殴られたり―― マスク枯渇のこの状況にあって、引きこもりっぱなしの仕事柄、“我先に!” というほどにまだ重要視できていないボクなんかは世間の風向きに注意していないとほんとにパズー(ラピュタ)のお父さんみたいになりかねないので、周りに迷惑をかけないという筋を守るためにも、ある程度その動向に関心を向けるようにせねばと、襟を正している次第ではあるんですけれども......。さておき、すでにいろいろな方面に影は落ちているが、マスクを巡っても俄然ウイルスや病気とはどこか別の次元で殺伐としてきている今日この頃。
 それに伴って、フォーカスされてくるのがマスクそのもののその実情であろう。マスクをする・しないの間で当然のことながら浮き上がってくる疑問というのがあって、それがこのそもそも論なのであった。
 “新型ウイルスの予防に実際マスクって効果あるんか?”
 あるワイドショーでその点についてまさに問われていた医師はこう答えるのであった。
 「まぁ、つけないよりはつけていたほうが......」
 めちゃ眉唾。
 物心ついた頃から花粉症で、マスクをつけたところで症状がマシになったことなんて一度もなかったボクからしたら、まぁそんなもんか、と。自分の実感にフィットするような意見を前に、合点&肩透かし。
 とはいえ、正解なんてあってないようなこの世界、理屈と膏薬はどこにでもつきますから。たまたまその医者はそう言ったが、飛沫感染に重きをおけば “そうだよなぁ〜” とも思えたり、予防におけるマスクの効果や有用性を説こうと思えばこれはエニタイム・エニウェア、いくらでもできるわけで。なので予防の観点でマスクを必死につけてる人に「意味ないらしいよ」なんて言い聞かせたところでそれこそ何の意味もないし、大きなお世話なのである。なんせ、マスクに奔走する彼らにとってそもそも重要なことは実際にマスクに予防効果が “ある” か “ない” かなんてことではないのだから。何なら予防の現実性なんてオマケみたいなもんといってもいいだろう。謂わば、ああいうのはみんな心の安定のためにやっているのである。それは具体的にいうなれば、つまりこういうことなのだ。
 “仮に病気になってしまったときに、「マスクしといたらよかった」と後悔しないため”
 そう。マスクをつけてる人たちはウイルスの予防ではなく、あれは生じ得る後悔に対する予防の観点でマスクをしているのである。
 たとえば、ボクのように差し当たり自分の身を守るという意味において(人に移してしまうという観点はとりあえず横に置いておいて)のマスク着用にまったく重要性を感じていないような人間が新型ウイルスに侵されたとしてだ。そのときに「あぁ、マスクをしていればよかった......」と思うかといえば、まずそうはならないだろう。なぜならそれは、ボクが現段階でマスクに防護の意味を見出だせていない、すなわち極端に言えば自衛の観点におけるマスクというものの存在価値を認めていないがゆえに、新型ウイルスの感染を巡って “マスクをしていた自分” と “マスクをしていなかった自分” という枝分かれが起こっていないから。この場合、ボクのなかにあるのはただ一筋。“甘受” の一本道である。
 「しょうがない」「運が悪かった」「ファッキン・コロナ」
 単純にこうなる。
 もし、そこでボクが “やっぱりマスクをしとけばよかった!” と思ったとすれば、それは口ではまったく必要性を感じていないとか、意味を見出だしていないと言っておきながらも、実際はわずかでもマスクの存在価値を認めていたということに他なるまい。
 “選択なきところに後悔なし”
 “後悔なきところに迷い(動揺)なし”
 結局、マスクをつけろだ、つけても意味ないだ、売ってないだ、高額転売だ、そういう類いの騒動は、後悔というものに振り回されるような(理性的とは程遠い)人間にあっては、マスクなんてものが世の中に生み出された時点から担保されていた難事であって、そしてそれは逆説的には、マスクというものがもしこの世に存在していなければ起こるはずのない惨事でもあるということなのであった。
 大学の頃、学科のある選択科目でグループワークのコマがあった。
 授業概要は芸術大学らしく、グループ(人数問わず)を組んで、共通のテーマに沿って作品を制作、最後一般開放している学内の展示スペースでの展示を目指すというもの。
 グループの構成は自由ということだったので、みんな概ね普段からつるんでいる友人同士でがっちりスクラム。ボクもご多分に洩れず、友人とジョイン。
 その構成員は、バイトと遊びと惰眠に命を燃やしていたMr.俗物、大学始まって以来の無知・無思想・無技量のトリプルナッシング、学科イチのボンクラ男だったボクと、同じくバイトの鬼、マリンピア神戸(バイト先)のドン・コルレオーネ、奈良が生んだマイペーススチューデント、和製ロバート・デ・ニーロの異名をもつサカタ先生、そして、大学の入学式を堂々ポカ休、アブセンティズムの帝王、ガーリックボーイズとあゆ(浜崎あゆみ)を愛好する孤高のラヴ・サイケデリコ、ヒデヘンドリックス君という、簡単に説明すると、大学で三人揃って顔をあわすことなんて滅多にないという不揃い戦隊サンバルカン。
 何ちゅーか、もうこの三人が組んだ時点で地球の未来は暗いというか、その授業の単位は諦めたも同然だったのだが、実際制作がスタートしてみればこれがもう火を見るよりも明らかで、まず学校に来ない。
 言ってもボクなんかは下宿先が大学の近くにありましたから、まだキチンと大学に行って、授業なんか一限も出ず、日がな中庭でサッカーに興じたりしてたんですけど、他の二人がもうまるでダメ。表現するということに関しては、三人の中ではサカタ先生が圧倒的に関心が高く、造詣も深くいらっしゃったので、サカタ先生なくしてこのグループの制作は進み得ないというのがグループ結成時の暗黙の了解だったはずだが、そのサカタ先生がもう翌週から行方をくらますというね。ヒデヘンドリックス君はヒデヘンドリックス君でプライベート第一主義だったので、毎日彼女の家に出向いてはその身の回りの世話に超ビジー。彼女のバイトの送迎をしたり、Cookie(少女マンガ雑誌)買いに走らされてたり、肉まん買いに神戸中華街まで飛んでたり、じぇ〜んじぇん学校に現れやしない。じゃあ致し方なしということで、ボク一人で何か進めようと思っても、前述の通り、無知・無思想・無技量に加えて、芸大にきたくせに何かを表現したいという意欲すら一切持ち合わせていなかったもんですから、何をどうしていいかこれがさ〜っぱりわからないんだなァ〜。(加山雄三調)
 結果、他の友人グループが真剣に話し合ったり作業を進めている横で、「ねぇねぇ、こないだのあいのり観た?」とか言って、お菓子食いながら横槍入れつつ、それぞれの作品に菓子クズこぼしながら各グループを渡り歩くという疫病神ワーク。で、思えばいととし、この年月。あっという間の1セメスター。気付けば、展示前の担当教員への作品提出期限3日前を迎えてしまっていたという。
 ここまでくると、課題はおろかもはや二人の顔すら忘れかけていたのだが、しかしここでまさかのミラクル。神様がいたずらを起こした。
 そう。学校で三人が揃ったのである。この土壇場のタイミングで。
 下手したらその瞬間宇宙で惑星が一直線に並んでたんじゃないかと思えるようなその有り得ない現象を前に、言葉にならない感慨を抱きつつも、「お、おぉぉぉ〜 久しぶりぃ〜」なんつって。
 小中高生時の夏休み明けのような気恥ずかしさもいとをかし。
 「いやぁ〜随分痩せたねぇ〜」「あ、髪パーマ当てたんだぁ〜」「へぇ〜彼女と有馬温泉行ってたの? いいねぇ〜」
 久しぶりの再開に会話も弾む。
 そして積もる話も一段落、一頻り雑談を終え、“さて......” という空気が三人のあいだにふっと流れたそのタイミングだった。満を持したサカタ先生が重い腰をあげるように一言、いよいよ以てこう口火を切られたのであった。
 「よし。じゃ、ワタシはこの辺で......」
 下校。
 バイトなのである。
 穏やかな表情でその場をさっさと去ろうするサカタ先生。それをみて慌てたボクは、「ちょっと......!」とサカタ先生を引き止め、こう一言だ。
 「また4年後」
 軽やかなジョーク。
 「お互い体には気をつけましょうね」
 そう結ぶサカタ先生の優しさが嬉しい。
 ――と、ボクとサカタ先生のそんなやり取りを、“何か忘れているような......” という具合に首をひねって眺めていたヒデヘンドリックス君が、ここでポンと手を打って我々にポツリこの確認。
 「そういえばさ、課題どうするぅ?」
 サカタ先生の帰る足取りがパタリと止まった。
 ボクも、“ああ〜...... そういえば” という具合にアゴ髭を擦った。
 ヒデヘンドリックス君は吸っていたタバコの煙をくゆらせながら、半笑いでボクとサカタ先生を眺めている。
 三人目を合せたらば、そのままMUGO・ん...(無言)のアイコンタクト。「......うん」「まぁまぁ......」「......ねぇ?」といった具合に目と目で通じ合いつつスピード採決。論を俟たずの全会一致スマイル。
 ザッツオール。
 原チャ通学のサカタ先生をそのまま駐輪場までお見送り。愛車のベンリィCL50に股がり颯爽と去り行く先生の後ろ姿、角を曲がるまで見送ると、いつもブレーキランプ五回点滅、“土台無理” のサイン。
 というわけで、試合終了のゴング。我々の戦いはリングにあがるどころか、会場にも行かずに終了したのだが、当然その胸中は何の屈託もなかった。そりゃそうだよ。だって、あと3日しかないんだもん。誰の頭にもこの授業の単位を取りにいくという選択は存在していなかったわけで、大胆不敵、勇猛果敢、威風堂々。
 周りがみんな提出に向けてピリピリと追い込みをかけているなか、外のベンチで横になり、一服しまくるボクとヒデヘンドリックス君。
 「平和だなァ〜」
 授業中の静かな校内。心地よい鳥のさえずり。空も青く、購買で買う菓子もウマい。
 まさに、“選択なきところに後悔なし”、“後悔なきところに迷いなし”。
 焦って、取り乱して、人のせいにして、殺伐として然るべきこの場面で、我々は潔くも清々しい態度でそのまま躊躇なき帰宅を決め込んだのであった。
 “シンプル・イズ・ベスト”
 こんな言葉が格言のように人々のあいだで囁かれ続けるのも示唆的なことで、要するに、選択ってのはありゃあるほどいいとされてる一方で、なきゃないでそれはそれで健全だよね、というエピソードである。
 “選択”。
 シェイクスピアの言葉を借りれば、人生とはこの連続である。
 選択こそ人生といっても言い過ぎではないくらいだろう。
 それが板についてしまっている人生にあっては、選択肢があるというのは、確かに生き甲斐に繋がることであり幸せなことである。それによって救われるというか満たされるというか安定することがあるわけで。
 たとえば、もし今の自分のこの仕事がダメになって別の職を探さなければいけない状況になったなら、次の仕事が選べるほどあればそれは助かるし、自分が何か大病を患ったとき、直す術ももちろん多くあってほしい。食いモンだって種類があったほうがベターだとも思う。
 けれど、それが全てじゃないのである。既述の通り、選択によって後悔は生じるのであり、つまりは選択肢があればあるほど、後悔を抱え込むことにもなるわけで。後悔を抱え込むということは荷物が増えることと同じで、それゆえ人は愚鈍にもなれば、緩慢にもなる。愚鈍と緩慢は必ず怠惰を招き、怠惰が辛苦を惹起させれば、人心の荒みを層一層にかき立てる。
 安定(満足)を求めていろんな選択肢を用意したはずが、いろんな選択肢があるせいで不安定(不満足)にもなるという矛盾。そして、その不安定を安定させようとしてまた別の違う選択肢を用意して深みにはまるという悪循環。
 以前にもこのブログのどこかで引っ張った気がするが、映画監督の庵野秀明氏が “人間の進化” というものについて問われた際、こんな発言をしている。
 「進化はあきらめたほうがいい。いろんな事をあきらめたら楽になるし。やらなくてもいいことまで今やってる気がする」
 また、彼が師と仰ぐ宮崎駿氏もご自身の著書でこれと似た視座で、このようなことを論じている。
 「素っ裸にならなきゃダメなんです。失くすことで、初めて辿り着ける場所や、手に入れられるものがあるんです」
 要するに、モノでも文化でも考え方でも価値観でもなんでも、道や枝分かれが増えれば増えるほど、増やせば増やすほど混迷しますよと。手に余って、しんどくなって、鈍臭くなっちゃいますよと、巨匠連は自省込みでうな垂れてらっしゃるのだが、しかし、後悔したくないがゆえに自分の進んできた道のりを正当化せざるを得ないのもまた人間。
 同じ手順をとって進み続けるほかなければ、後戻りすることすらためらわれ、挙げ句、本懐をも見失い......。
 「量の氾濫はあらゆるものの質を変える」
 これも宮崎駿御大の言葉であるが、とにかく、何にしても “増やす” という方向に舵を切ることが、必ずしも純粋な “プラス” とは限らないということ。全てが幻想、すなわち水物のこの人間社会にあっては、他面それはカルピスを水増ししていくようなもんで、量が増えることで一見得したような気にこそなれど、増やせば増やすほどその分薄まってマズくなるという、おおよそケチのつきかねない余計なことだったりもするということである。
 ほどほど。
 やはりこのラインが大切なんですな。何事も。しかしこのラインがまた人ぞれぞれなもんだから、結局、全ての問題は根本的に人間が増えすぎてるということに行き着きざるを得ないのであるが......。
 何はともあれ、単純明快、シンプルでいれることほど円滑なことはない。
 それはエコだとか、断捨離だとか、あるいはミニマリズムみたいな発想が大量消費社会なんて皮肉られることの多い今のこの社会にあって、しばしばスローガンのように打ち出されることに如実。
 複雑さを極め困窮したら、シンプルに立ち返る。これこそ物事の根本解決に一番的確な正攻法だと思うわけだが、これ如何に。
 マスク一つで人がここまでごたつき、誰の目にも世の中の鈍臭さ、混迷ぶりが明らかになった今。何かそういうことを勝手に突き付けられている気がしている今日この頃。まぁ、これも状況に対しての自分の都合ないし慰め以外の何ものでもないわけですけども。
 あらゆるものをかなぐり捨てて、身軽になれたら――。随分前からそんなことをボクはしばしば夢想する。......けど、できないんだなぁ〜これが。実際。だからこそ度し難くもあるんでしょうな、人間は。
 然りとて、いつ何時でも家が火事になったときには家財なんて一切気にせず、身一つですぐ逃げられるような、そんな心構えではありたいものである。
 “手放す覚悟”
 増長し続けることに伴って同時にボクらに求められていることはいつだってそんな覚悟なのである。


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