『当たり前だのクラッター』


 未見の映画に対してああだこうだマイナス寄りの意見というか憶測を述べると、その映画を観て面白いと思った人は往々にしてこう言う。
 「観てもいないヤツが言うな」
 極めて理路整然としているわけだが、こういう反論は直接的であれ間接的であれ、目の当たりにするたび、ほとほとウンザリする。
 おのれはアホか? と思う。
 なんせ、こちとら観てないからこそ言ってるのである。
 観てないからこそ言えてることなのである。
 観て面白かったら、偏見がなくなって、言うことが出来ない意見なのである。
 例えばそれが単に自分の劣等感から発露したものであっても、意見に変わりはないのである。
 自分が面白いと思ったものをケナされ、あんたの見栄というかプライドがどれだけ傷付いたのか知らんが、観ずに意見した人に対して一方的に悪のレッテルを張りつける。これは大いなる虚偽であり、すり替えだ。その作品に対して自分が抱いた感想、あるいは捉え方、受けた影響、趣味嗜好が、いかに表面的で軽薄且つ貧弱であるかということの証明に他ならない。
 要は根本的に自信がないのだろうが、自分の中のそういう自信のなさを他人の非とすり替えて、「義は我にアリ」みたいなツラをする。厚顔無恥も甚だしい。はっきり言って鬱陶しいのである。
 かつて槇原敬之は『どんなときも』でこう歌っていた。
 “僕が僕らしくあるために 好きなものは好きと 言える気持ち 抱きしめてたい”
 いかにお宅らがそういう気持ちをフワッと抱いているか、あるいはフワッと抱いていることに気付いていないかということなのだ。ちゃんと抱きしめて下さい。マッキーを見習って。
 とはいえ、人間なんでね。瞬発的にイラッときてしまう気持ちはよくわかる。エラそうにツラツラ綴ってますけど、ボクもどちらかというとそちら側の人間ですから。そういう気持ちに理解がないわけではない。相手の態度についついそう言ってしまうことだってある。
 だが、やはり何に関しても自分の芯でしっかり物事を捉えてる人というのはそういう局面でも揺らがないものです。機知に富んでいてね。そうあれたほうが結果としてお互いウインウインというか、発展的だとも思うので、例えば映画であるならば作品を観てる観ていないに限らず、人の意見は出来るだけ感情に左右されず一つの意見として享受出来るよう個人的には心掛けているし、意識すべきだと思ってるわけですけれども、以上のことを踏まえつつ、本題に移りたい。
 電車である。
 以前にも記したが、荒行によりネットを見なくなったこともあって、外でスマホをイジる機会がほとんどなくなったボク。
 枠の中から外に出て、初めて枠の中の様子がよく見えるようになるというもので、そういう状況になって改めて電車の中で痛感しているのが、車内のスマホ村っぷりだ。
 とにかくみんなスマホスマホスマホ。先程のお話同様、一つの意見として輪から出てみた感想を言わせてもらいますけど、ハッキリ言って異様である。なんぼ、人生を持て余してるのか、空白を恐れてるのか知りませんけど、みっともないこと甚だしいですよ、まったく。自分がイジらなくなったからこそ、他人事のように言わせてもらいますけど、気色悪いです、ええ。車両の端に立って奥まで眺めてみれば、極端な話、それこそ椅子に座ってる人から立ってる人まで、みんなスマホだもの。もう、いっそ身体改造してスマホにでもなりゃいいんじゃないかと思ってしまうぐらい、みんなスマホ。すごいね、スマホ。なんなんだよ、あの機械。マジで。どうなってんの。っていうか、飛行機って、なんであんな重たいのに空飛ぶわけ? わけわかんねぇよ、世の中。とにかく何とも不思議な光景が広がっていることに気が付く。
 とはいえ、言っても、自分もスマホは持ってるわけでね。同類は同類。同じ一員として、肩身は狭いし、居心地が悪いこと夥しく、電車に乗り、車内のスマホ祭りに直面するたび自己嫌悪からどうにも具合が悪くなってしまうのだが、しかし、ここで一考して、じゃあ、本であればどうか。電車で本を読むのであれば正しいのか、健全なのかというと、それも何ともいえず。その時代に立ち会ったわけじゃないので憶測でしかないが、本だって振り返れば当初は「けしからん!」といった風潮だったかもしれないわけで、つまり、人の世というのは斯くも浮き雲の如し。村上春樹がかつて何かで書いていた「類型は反類型を含み、反類型は類型を含む」という言葉まさにそのものなのであった。
 その基盤には、人のあきらめや妥協があるのはもちろんのことだが、何といっても、“当たり前” という思い込みによる力は大きく、つまり、それがひとたび当たり前のこととして思い込まれれば、どんなに否定され、嫌厭されていたものでも、日常の風景としてすんなり成立してしまうわけだから、その影響は甚大且つ脅威的である。
 それは、プラシーボ効果という言葉にもよく表れていて、医療における薬においても、薬を飲めば効果が出るのは “当たり前” という思い込みから、新薬の比較試験なんかの際には、実薬・偽薬に関係なく同じ効果をみせることがままあるというのだから、“病は気から” というのも頷ける。
 要するに、人は “当たり前” という観念にあぐらをかいているところがあるというか、安心しきってるというか、堅固しているというか、冷静さを失っているというか、とにかくその観念が働いているものに対してどこか思考を遮断してしまっている節があって、すなわち、愚鈍になるのであった。
 2000年の大晦日。
 ボクは神戸の三ノ宮駅で、ある男と待ち合わせをしていた。
 それは高校来の友人、ヤスという男。
 お互い進学した先の大学が神戸・大阪と関西で近かったので、ヤスとは地元を離れてからもこうやって場所を移し、ちょくちょく遊んでいたのだが、この日も彼と過ごす約束をしていたのだった。
 無論、不本意である。予定では、広末涼子みたいな素敵な女性とMajiでKoiして、二人っきりで大学生活初めての年末年始をホットに過ごすはずだったのだが、何というかまぁ、予定は予定。妄想は妄想。かもめはかもめ。
 素直に実家にでも帰りゃいいのだが、あいにく、ボクは親とは犬猿の仲で実家が大嫌いだったので、地元に帰る気など毛ほどもなく、そこで同じく年末は地元に帰らないという選択をしていたヤスの召喚と相成った。
 正直、コイツと過ごすのもどうかとは思っていた。なんせ、1年前の年末もこの男と劇場版『GTO』(反町隆史)を観に行ったり、ヤスの自宅でゲーム(桃鉄)しながら新年を迎えたりと、非常に寒々しい年末を過ごしていたものですから。同じ轍を踏むことに対するウンザリ感は否めない。が、しかし、もはやこの際しょうがないといいましょうか。いや、むしろこんなヤツでもいてくれてよかった。
 なんせ、ボクには当時自分の中で “大晦日” というものに対して極めて強迫的に思い込んでいたことがあったからだ。それがこれである。
 「大晦日を一人で過ごすなんてあり得ない!」
 広瀬香美の歌詞か何かに出てきそうなチンケな観念であったが、しかし、当時のボクには至って切実。大晦日を誰かとエンジョイせねば人生損しているような気にすらなってしまい、つまり、ボクの中で “大晦日は誰かと楽しく過ごすもの” ということが “当たり前” のこととして脳内に刷り込まれていたのであった。
 若気の至りだ。誰がどう考えたって相当くだらない思い込みである。だが、思い込んでる以上、当時のボクに客観性はない。それが証拠に、その日ボクは朝から具合が悪かった。
 朝起きた瞬間悟った。タマキンの気怠い感じ。軽い頭痛。喉のイガイガ。確実に風邪か何かだろう。
 しかし、“お家でおとなしく休む” なんていう発想がこの時のボクにあるはずもなかった。だって、大晦日だもん。誰かと楽しく過ごすのが大晦日だもん。
 完全に冷静な判断力を失っているボクは躊躇することなく、意気揚々と三ノ宮へと向かった。そして、三ノ宮駅に着いた頃には確信していた。
 “38度はあるな......”
 バカなのである。というか、もはや迷惑。だが、そんな配慮や判断がこの時のボクに出来るはずもない。なんせ、大晦日ですから。
 それでも、病は気からというか、“大晦日を楽しく過ごすぞえ!”という執念なのか、ヤスと合流後、体に違和感こそあれど足取りは軽く、万事楽しく過ごしていたのだが、夕方ぐらいだったろうか。カウントダウンまでの時間潰しに映画を観ようと映画館にインし、腰を落ち着かせたその瞬間。容態が急変。
 映画は当時話題だった『バトル・ロワイアル』を観ていたのだが、生徒が殺し合いを始めるよりも前に、もはやボクが真っ先に死にそうになっていた。
 “ハァハァ...... これは...... 39度...... 超えたな......”
 帰れっつの。我ながら呆れるね、まったく。鈍感なヤスもさすがにボクの異変に気付いた様子で、隣の席で昇天しそうになっているボクに気遣いの言葉をかける。
 「コーラ、飲む?」
 いや、コーラは結構。
 ちょくちょく意識を失いつつも、なんとかかんとかバトル・ロワイアルを生き抜いたボクはヤスの肩を借り、引き摺られるように劇場を後に。予定ではこの後、マリンピア神戸というアウトレットで催されるカウントダウンイベントに行くということになっていたのだが、ボクの状態をつぶさに分析し、判断したのであろう。ヤスは厳しい顔付きでボクにキッパリと告げるのであった。
 「よし。いけるとこまで行こう!」
 親指を立てるボク。
 バカ×2はマリンピア神戸へ。
 現地に到着すると、会場はもう大混雑。きたる21世紀を前に尋常じゃない人でごった返していた。
 あげく、このマリンピア神戸、おもいっきり海に面した場所にあるゆえ、風がピューピュー吹いてて寒い寒い。
 新年&新世紀まで残りあと1時間を切った頃には、ボクはすっかりヤスの後ろでドラクエの棺桶になっていた。体も動かない。もはや一目もはばからず、サイバイマンにやられたヤムチャのようなポーズで道端に寝転がるほかなく。
 道行く人々がマリオみたいにボクをジャンプして避けていく。申し訳ない ......なんてことを思う余裕すらなく、『フランダースの犬』のラストシーンのような気分だけが高まっていく。
 遠退く意識のなか、ヤスがボクに一生懸命声をかけている。
 「おい! アポロ、もうちょっとだ! あと1分! ......あと50秒!!」
 会場にいる大勢の人達のカウントダウンの大合唱が耳に響く。そして......。
 「5〜! 4〜! 3〜! 2〜! 1〜......!!!!」
 歓声とともに打ち上げられた花火が新しい時代の夜空を彩った。
 「フゥ〜! ハッピーニューイヤ〜! フゥ〜!!」
 ヤスが隣で一人虚しく盛り上がってる。
 ボクはというと、花火の光でチカチカしているアスファルトに横たわり、行き交う人々の足元を眺めながら、朦朧とする意識のなか、心の中で息絶え絶えにこう思っていた。
 “早く...... 帰りたい......”
 結局、その後どうやって家に帰ったのか。ハッキリとは覚えていないのだが、目を覚ました時には家の玄関にいて、海で軽く泳いできたのかというぐらい汗だくになっていた。そして、そのまま正月も一日中寝込むはめに。何とも無残な年末年始となったが、しかしまぁ、何はともあれ生きててよかった。
 今にして思うに、年末に対してボクが非常にナーバスな気持ちになってしまうのは、ひょっとしたらこの経験が元になっているのかもしれない。死にかけた体験が、大晦日の終末感と結びついて、自分の中の大晦日に対する印象を決定づけたというか。とにかく、“大晦日に外出なんぞろくなモンじゃない” といったところで、ボクの中での “当たり前” はこの時一つ崩壊し、別の強迫観念をもって大晦日に対する意識の変化へと繋がっていったのであった。
 このように、“当たり前” というのは、普段意識はしなくとも、上記のような極めて個人的な “当たり前” から、広義には国家だとか法律だとか道徳だとか、いわゆる常識といわれるものまで色々あって、それらは強固でありながらも非常に脆くもあり、ボクらを日々翻弄している。
 しかし、それが一方的に人に悪い影響を与えるだけの観念でないことは周知の事実で、それゆえ状況は複雑だ。
 というのも、自分の中にある “当たり前” が一切排除されてしまったとあれば、精神的に身が持たないことぐらいは安易に想像のつくことで。言うまでもなく “当たり前” のこととして社会や文化や規則やモラルなんかがあるゆえ人は人として生きていけるのだから、その必要性は人が固持することに比例して明確だが、しかし、容認されているものに対して、つけ込み、つけ上がるのもまた人間。結果、冒頭に記した映画の話のように、“当たり前” であることを楯にして、“当たり前” であるという剣を振るう。そして、正義をきどる。大した自覚もなく。誰かにとっての正義が誰かにとっての悪だという発想をも見失う。そりゃ、戦争だってなくならない。
 要は、意識にあげることなのだ。“当たり前” であることに守られていること、“当たり前” であることに翻弄されていること、“当たり前” であることが決して “当たり前” ではないということ。割り切るにしたって、それが先にないことには意味がない。ボクはそう思う。
 が、無論、そういったボクの考え方だって “当たり前” ではない。むしろ、見当違いなことを公然と記している可能性だってある。
 つまりだ。そういう諸々引っ括めて、“当たり前” みたいにしないよう気をつけなければいけません、というお話である。


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