『失われたもの/失われるもの/失われそうなもの』


 インターネットというものに対しては個人的には薹が立ったというか、そろそろ線引きしたほうがいいのではないかという意識を持ち出したもので、最近では仕事に関係することや必要に迫られた調べごと & 必要に迫られたエロ動画以外のネットは一切しないよう努めているのだが、そうやってネットとある程度距離を置くことかれこれ数十ヶ月。
 ネット抑制していてまざまざと感じるのは、“情報に疎くなる” だとか、“周りとの会話にまるでついていけなくなって世間から置いていかれる” なんていう、そんなしょうもない疎外感ではなく、時間というものが自分が思っていたよりもずっとゆっくりと流れているという感触そのものだった。
 要するに時間が驚くほど有り余るのである。
 無論、仕事してたり用事してたりすればやはりあっという間に過ぎていくのだが、それ以外の、いわゆるOFFと呼べるような状況においては実に遅々としたものになる。
 最近のボクに限っては、本や漫画や雑誌なんかも読まず、当然ゲームもしない、TVも日中は絶対観ないようにしているうえ、そこに加えてネット抑制ときたもんだから、仕事に空きができた時なんかはもはや家にいてもやることがなく、その瞬間体感速度たるや例えるならバイトなんかで暇な時に生じる「あれ、まだ5分しか経ってないじゃん......」のまさにソレ。
 はっきりいって苦痛なのであった。自分がこんなにも空白の時間に耐えられない人間になっていたとは。
 おまけにこういう時間ができると、自己否定だ自己嫌悪だ心気症だ死の恐怖だと余計なことばかり思考してしまって、精神衛生上もヒジョ〜に具合が悪い。
 そういうわけで時間に空きのある時はもうお散歩するしかないのだが、近所に井の頭公園があるというのは本当に幸運だった。
 公園をじっくり散歩することが今の自分にとってこんなにも癒しになるものだったのかと。
 井の頭公園の池にかかる橋は風もよく通り、心地よく、そこに長い時間佇んでいると、その風が自分の身体をいつしか透過するような、細胞一個一個が掬っていかれるような、そのままス〜っとゆっくり空気に溶け込んで昇天してしまうかのような、かなりヤバい気分になったり。また、新緑のこの時期に雨が降ると木々の葉はハイライトの部分をなくし緑が一層深く、重くなって、不気味で怖くてそれでいて静謐で、雨と一緒に落ちてきそうな、落ちてきて押し潰されそうな、飲み込まれそうな、押し潰されたような、飲み込んでくれたような、要するにこれまたなかなかヤバい気分になったりと、まぁ〜とにかく鬱積したものが相殺され、平らになっていくような感じがあって今の自分には非常に馴染み良い。おまけに公園をブラブラしているだけでこれが意外に飽きないのである。
 今までそんな素振りこれっぽっちもみせなかった人間がこういう感想を漏らしてるとなると、他人の虚栄や自己顕示のモグラ叩きに熱心な人なんかは、鬼の首を取ったように「だったら田舎にでも越してのんびり暮らせばいいじゃん?」みたいなことを思ったりするのだろうが、そういうこっちゃないのだ。それとこれとは話は別。
 田舎で暮らせるほどボクの自我は逞しくないし、田舎で暮らす才能はもはやボクにはない。
 要は、ギュウギュウに人が詰まった満員電車の中に自分の身をうずめて人に寄り掛かることでボクはやっと立っていられるというところがあって、つまり、今の自分にとって自然との接触というのは、差し詰め息詰まる満員電車の中で、窓の外の景色にささやかながら癒されるといった意味合いなのである。......なんて、弁明する必要もないのだが。
 何にせよ、家でネットなんか見てるより公園を散歩してるほうがよっぽど気分がいいことは間違いない。
 “気分がいい” ということでいったら、公園を散歩すること以外のルーティンとして、吉祥寺の某デパート屋上で飲み物片手にまったりするというのもお気に入りの過ごし方なのだが、ここもまた最近のボクにとっては興味深いスポットだ。
 というのも、この屋上には申し訳程度の遊具が置いてあるため、子連れが多く、あっちこっちと子供が遠慮なく元気にはしゃいでいるのだが、この子供というのがまた見ていて飽きないのである。というか、もう眩しすぎる。
 これは主として幼児期の子供に対して特に感じることなのだが、何というか歩いている姿一つとっても純粋な喜びや感動、発見、達成感、好奇心諸々に溢れていて、眺めているだけでこちらまで元気になれるところがあって実に良い。自分の子供を持って大変さだったり面倒さみたいなことをしっかり享受してこそ本質的な感動を被れるのだろうが、傍から見ているだけでこれだけこちらの気分が和むのだから宮崎駿が一つの糧とする気持ちもよくわかる。自分の中の根源的な何かに訴えかけるような、生命力が貰えるような、不信がほぐされるような、そんな感じが確かにあるのだ。
 ほんの少しの段差を何度も何度も上ったり下りたり、人工芝やコンクリートの感触を楽しむようにあっちこっち歩き回ったり走り回ったり、柵のある一カ所をず〜っと観察していたり、日向と日陰の境い目の部分をピョンピョン跳ねたり、とにかく大人にとって何でもないあの空間で飽きることなくハツラツと躍動してる姿に欣懐と羨望の念を禁じ得ない。そしてまた、自分にも確実に訪れていたであろうこの季節のことを想うと、何とも切ない気持ちにもなったり......。
 そもそも身体を動かすことに純粋な喜びや楽しみを万遍なく感じていたのはいつまでだっただろう。ボク自身の記憶として鮮明に残るのは小学生時代だが、思春期になるぐらいからその翳りが見受けられたか。そこから異性を意識し、自分を意識し、大人を意識し、子供から青年になり、アウシュビッツがごとき社会に放り込まれる端境期に入っていったように思い返されるが、はたしてどうだろう。
 実際ボクにとって中学に入るまでの日々というのは、喜怒哀楽あったにせよ毎日が実に充足感に充ち満ちていたような気もする。
 小学2年の頭から卒業するまでの5年間。身体を動かすことにおそらくまだ純粋な喜びを感じていたであろうその時期といえば、ボクは静岡県は浜松というところの南西部で過ごしていた。ここがまたなかなかのド田舎だったのだが、今思えばその時期をここで過ごせたということは自分にとって非常に幸福なことだったと感じていて、いろいろなことが今でも原体験として残っている。
 当時、近所の団地の裏手なんかは『となりのトトロ』とまではいかないがそれなりの田園風景が広がっていて友達とよくザリガニやカエルなんかを掴まえにいったものだった。懐中電灯を持っていってビショビショになりながらトンネル型の用水路を探検したり、虫にガンガン刺されながら茂みの中に基地を作ったり。家の裏手が草ボウボウの空き地だったのだが、太い雑草の茎が枯れて枝のようになったものをみんなで拾って集めてそれでよくチャンバラもした。公園の横に隣接していた森の中に入って危険も顧みず木登りしたり、木に縄を結んでターザンごっこしたり、高鬼したり。近所のあっちこっちにヤマモモの木があって、腹が減っては木に登ってヤマモモをムシって友達とそのままヤマモモを食べた。川や湖も近くにあって、平べったい石を一生懸命探しては日が暮れるまで何度も何度も川に投げて水切りした。泥だらけになって、傷だらけになって、クタクタになって、それでも1日が終わらなくて。
 昔と今、あるいは田舎と都会で体験にどれほどの差があるのかはわからないが、インターネットなんかなくても、スマホなんてなくても、ゲームなんてなくても、漫画なんてなくても、ささやかな自然の中で身体を動かしているだけで毎日が楽しかった。世代的に漫画やゲームの恩恵は十分受けてはいたが、それらがなかったとしてもきっと空白の時間なんて感じなかった。ほんの数分・数時間が何年にも値するような密度をもっていた。大人になった自分の勝手な美化も多少入っているのかもしれないが、豊かで意味のある時間がそこには確かにあって......。
 そして、それらは失われていった。
 今のボクはザリガニやカエルなんか触りたくもないし、用水路に入って汚れたくもない。虫にガンガン刺されてまで茂みに入る気もなければ、雑草でチャンバラする気も毛頭ない。やってみたところであの頃ほど楽しめる気もしない。何年も前にノスタルジーに駆られて昔住んでいたその辺りに一人でフラッと行ってみたことがあったのだが、その時にターザンごっこなんかしたあの公園に行ってみると隣接していた森には金網が張り巡らされてあって立ち入り禁止になっていた。あっちこっちに家やアパートなんかが建てられてて、茂みや空き地はおろか、ヤマモモの木なんかどこにも見当たらなかった。まぁ、ヤマモモがあったとて、そのまま食べるなんて今では怖くて出来もしないが。水切りした川も場所によっては柵が設けられ、ある場所は川べりまで降りれなくなっていた。たとえば懐かしさから水切りしたところで1、2回やれば十分だろう。
 何でこうなった?
 自分が変わったからか。はたまた世の中が変わったからか。そういう摂理なのか。その全てか。
 スパイク・ジョーンズ監督作に『her』という映画があったが、空虚さに蝕まれる主人公のオッサンの印象深いセリフが思い出される。
 「ボクは時々思うんだ。一生で味わう感情を実は全て味わってしまい、新しい感情はもう湧かないんじゃないかって。この先にあるのは味わった感情の劣化版だけで......」
 オッサンお得意のセンチメンタリズムとでもいいましょうか。このセリフが “正しい” とか “正しくない” とかそういうことはさておいて、これがボクにとって非常に腑に落ちるセリフであるのは、ボクの中にある喪失感とおそらく無関係ではないからで......。
 そう考えるとだ。人間は長く生きすぎなのかもしれない。間延びしてるというか。
 『ドラゴンボール』と一緒だ。あれだってみてご覧なさいよ。今もまだアニメでシリーズが続いてるみたいだが、ダラダラ無駄に長いことやってるせいであんな凄惨なことになって......。(個人的見解です)
 子供さえある程度育てられれば、あとは鳥みたいにスパッと巣から子供を追い払って、自分はそれなりにさっさと死ぬ。せいぜい40〜50歳ぐらいまででいいんじゃないかな、人の寿命。どう? 「どう?」って言われても困るだろうが。なんせ、そうなって一番困るのは死に対して人一倍恐怖心を持っているボクなわけで......。
 結局、そうやって世界は膨れ上がってきたんでしょうな。
 必然である。過去のどの時点にも責任はない。なるべくして今になって、そしておそらくこれからも世界は膨れ上がっていく。人間である以上、自分に纏わり付くあらゆる恐怖心には誰も耐えられないだろうから。ボク自身、そうやって膨れ上がった世界の恩恵を十分に受けてきているうえ、あげく、末端とはいえ今はそれに加担しているわけで。否定も出来なければ、否定する権利もなく、悲しきかな否定する覚悟もないのだから、途方に暮れるほかない。
 とはいえ、このまま文明が社会が人間が膨れ上がっていってどうなるかなんてのは、目に見えていること。
 それを理解しながらこの仕事を続けていることに対する罪悪感はいや増すばかりだ。......なんて言いながらも、「無知の知」に縋って何か抜け抜けと続けているところもあったり。かといって今の仕事を辞めて別の何かに身を投じたところで結局は同じ穴のムジナで......。そして、これもきっと言い訳で。
 ズルくて、愚かで、浅ましくて、首尾一貫出来なくて、引き裂かれて。あそこを叩けば、あそこが出てくるイタチごっこ。八方塞がり。四苦八苦。
 ともすれば、今の自分に出来ることといえば、やはり線引きぐらいしかなく。
 溢れ、満たされ、持て余し、鈍磨し、見失い、間延びしたような人生の中、誰もが自分自身に価値を見出だそうと躍起になっている今の時代だからこそ、自分の中にも線を引いて冷静な目を向け、整合性を図るしかない。
 例えばそれは、金や名誉のためだけにモノを作ったり生み出そうとする自分を軽蔑出来るように。
 自分の作り出したモノ・生み出したモノが、何かの・誰かのプラスになっているんだという大義名分に溺れないように。
 何かを生み出し与えることが、何かを壊し奪うことだという葛藤に身を埋めれるように。
 氾濫によってあらゆることがあやふやになりつつある世界の中で、しっかり線を引いて、はっきりさせて、否定して、受け入れて、割り切って、バランスをとっていくしかない。
 まったく難儀である。しかしまぁ、そういうもんなのだろう。人生とは。
 ともすれば、そんな窮屈で不明瞭で不安定な大人が、健全たる子供に対して何か夢や憧れをみるのも当然といえば当然のことで。
 ラッセ・ハルストレムの『やかまし村の子どもたち』という映画がある。ある村に住む子供たちの夏休みの何てことない日常が描かれた映画なのだが、登場する子供たちのその一挙手一投足にまさにボクはそんな想いを重ねてしまう節があって、そしてこの映画のラスト。夏休みがあけ、子供達が学校へ向かうため画面奥の森の中へと駆けて行ってしまうシーンがあるのだが、そこに子供時代の自分の姿をみてしまい、なんともまた切ない気持ちがこみ上げてくる。
 やかまし村の子どもたちと一緒に森の中へ駆けていった子供時代のボクはもう帰ってこないのだと。
 一方でボクは森の中へ駆けていった子供達の行く末を案じてしまう。彼らの向かうその先がどうか失望で溢れていないようにと、ただただ願うばかりなのである。


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