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『自我夢中』
かつて「一億総白痴化」という言葉が流行ったあの時代から時を経て、リリー・フランキー氏はそれをモジって当今を「一億総鶴太郎化」と論じれば、内田樹先生は「一億総プチ文化資本家(プチブル化)」と自戒と喚起を込めて銘打った。
まさにそれを地で行く世の中が先輩方の想像を遥かに超えて何の躊躇いも疑いも反省もなく実現されているという感じがもはや当世風といったところだろう。
TVのワイドショーなんかを眺めていればそれが有り有りとよくわかる。
事あるごとに “謝罪” したり・させられてたり、自分をまるで省みることなくこぼされる大衆の不平不満、くだらない芸能ニュース、行き場のない政治、逼迫した外交、飽くことなき社会の有り様等々、毎日毎日よくもまぁ〜こんなウンザリするようなニュースを垂れ流してくれるもんだなと。ボクみたいなプチブルの塊みたいな人間にとってはもうホントに耳が痛いというか。自分の現実を目の前に突き付けれているような感じがあって、ほとほと目眩がする。
最近 “マスゴミ” なんていって、不当な内容を取り扱うマスコミを侮蔑する人が増えているようだが、こういう人は鈍感だなと思う。あるいは、精神分析でいうところの「投影」が生じているか。というのも、マスコミというのはそもそも大衆の鏡ですから。その時々の国民性が反映されているにすぎないわけで。要は、今のマスコミが最低なら今の国民も最低なのである。今の国民が最低なら今の自分も最低なのである。そういうわけで、TVを観るのも楽じゃない。ハッキリ言って、シンドイです。
TVを見るだけでこのザマなのだから、ネットなんか推して知るべしで、こちらはもうホントに見るに耐えられない。なので、皆さんが鬼の首を取ったようにいつも言い放つ例の「だったら見なきゃいいじゃん」を実践するほかないのだが、しかし、所詮はこれも現実逃避。現実逃避である以上、問題の解決にはならないわけで。何というか、完全に目を背け、逃げ腰の様相を呈するあまり、立つ瀬なく、一人自分勝手な世界に埋没する今日この頃。これはこれで実に具合が悪いものです。ボクの周りの人達にとってもいい迷惑でしょう。
とにかくこの情報社会、ネットやSNSの普及・台頭をきっかけに、人は益々ドツボにハマったという感じがある。
これはボクのフェイバリット・ソング、尾崎豊の『僕が僕であるために』のなかの一節だ。
“誰がいけないとゆう訳でもないけど 人は皆 わがままだ”
尾崎という人は本当に早成というか、若くして慧眼の士だったんだなとつくづく感じるのだが、彼が歌っている通り、そもそも人間というのは根本的にわがままな生き物である。
それというのは、多くの精神分析学者達がつとに論じてきた通り、人間誰しもが天上天下唯我独尊の(他者を知らず、何モノにも囚われていない)状態で産まれてくるがゆえ。
人生とは、100%だった自分の世界が他者との出会い・事象の選択によって必然的に磨り減っていく過程であり、全ての人間が目指さんとするのはその復帰、及び回復なのである。要するに、お金がたくさん増えてウハウハになるのも、美味しいものを食べて満足するのも、他人に評価されて悦に入るのも、欲しかったものが手に入ってハッピーな気持ちになるのも、好きなコと付き合えてマンモスうれピーのも、全てはかつての100%だった自分の世界がささやかながら再現されたことに由来する。人は自身の「わがまま」がまかり通ったという状況に、プラスの感情を得るのである。しかし、それを全面に出して欲しては人間関係は当然破綻する。ゆえに手段を持たない子供は泣き叫び、反抗し、大人は理性を駆使して狡猾にその実現に奔走するわけだが、何にせよその仮面を剥げばだ。いつだってわがままを通したいという欲望と衝動に溢れているというのが人間なのである。
だからこそ禁止や制約もある。
そういう背景の元、「自由」が渇望されるのも然ることながら、同時に「自由」が危険思想たり得るのも当然といえば当然の道理なのであった。
自由を求めることが決して悪いというわけではないが、しかし、人が本質的にわがままで、且つそれに対し無自覚で、目を背け、過信する以上、自由ほど人を脅かしかねないものもないというのが一つの現実なのである。
つまり、ネットやSNSなんかによって誰もが “自由” に発信したり発言出来る今のこの状況というのは、誰もがわがままを通すことが出来るという状況を一種実現しているということでもあり、人間は戦争とはまた違ったベクトルでより殺伐としてしまったというのが今の世の有りさまなのであった。
現状ネットはほとんど無法地帯といっていいだろう。それゆえ身近なところでは、人々はツイッターだ何だと、輪をかけて奔放且つ軽薄、無軌道、無責任に威勢のいいことを発信している始末だ。なんせ、ボクのこの文章そのものがまさにそうですから。危うい時代になったものである。
バカがバカを見下しながらバカな発言をしてバカを証明する。
プチブルの典型だが、まんまと自分がそれになっているのと同時に、自分のような人間がそれを堂々とアピール出来る社会の有りようには恐怖にも似た不安を感じざるを得ない。加えて、そんな恐怖や不安を抱きながらも、それを手放し、そこから足を洗うことが出来ない自分のみっともなさと浅ましさとズルさには弁明の余地もなく、居心地が悪い。
マクドナルド創業に関するアレコレを描いた映画『ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ』。あれはマクドナルドの創業者であるマイケル・キートン演じる主人公レイ・クロックがどちらかというと悪い印象に映るよう描かれているわけだが、言ってみればあの映画を観て、マクドナルドに対する印象を悪くしたという人が、実際マクドナルドの店を前にして、コペルニクス的転回が起こり、マクドナルドを二度と利用しなくなるのかといえば、“そんなことはない” というのと同じだろう。
人としての意志の軽薄さと、今あるモノを手放せない下劣さには、うなだれる他ない。
......ということを、自分で気付いていて、他の連中とは違うと言わんばかりに反省があるような素振りでこうして文章にする自分にも嫌気がさしたり。
......という風に記すことによって、どこか自己顕示をしつつ、正当化しているような自分にも吐き気を覚えて...... 云々、自虐を始めればキリも無い。
とにかく、ネットという “自由” なフィールドを下地にボクを含め多くの人が自分の “わがまま” を通すこと、すなわち、自分の自我を満たし、安定させることに余念がなくなってしまった。
そんな状況下にあっては、人が本質を見失うのもこれまた当然の成り行きでもあり......。
例えば、以前同業の人達と “好きな映画” の話をしていた時のこと。
沼田健さんというアラフォーにして天然がすぎる先輩が、その時自身の好きな映画としてテリー・ギリアムの『未来世紀ブラジル』を挙げられたのだが、その理由を問うたところ、シレッとこのようにお応えになられたのである。
「どんな内容だったかは覚えてない」
えぇ!!?
吉本新喜劇ばりに全員椅子から落下。その場にいた室木おすしさんに至っては、ビックリしすぎて椅子ごとそのまま宇宙に飛んで行ってしまった。
「いや、それ好きじゃないよ!!」
一同総ツッコミである。すると、沼田さんは自身の眼鏡に光を反射させながら続けてこう言うのであった。
「『未来世紀ブラジル』っていえば、オシャレかな〜と思って」
オシャレかな〜 と思って言ってるその根性がオシャレじゃないのである。
まったく天然がすぎるお人だ。しかし、言わんとしてることはわかるし、こういうことは何も沼田さんに限った話でもなく、多くの人の心理的傾向として顕著であるからして、つまり迷走の感を免れない。
自分が他人からどう見られているかということばかりを気にし、他人からどう見られたいかという願望に執着する。
要は、自分の “わがまま” を通し、通そうとするための立場作りに必死なのである。
挙げ句、その傍らで他人の “わがまま” に対して非常に敏感にもなっていて。
ボクがここで今まで書き連ねてきた文章にしたって、これでいて頑張って読んでくれている人がいるみたいで、概ね冗長で、晦渋で、独り善がりで、まったく読むに値しないと大評判いただく一方、たま〜に内容に関して嫌悪感あらわに自身の考えを捲し立てられることもあるものですから、皆さん精が出るというか。正直なところ、こちらとしてはその都度、“その人のフラストレーションに貢献出来たんだ” と、ちょっぴり自分を誇らしく思ったりもするわけですけど、ともあれ他人の言説にみんなすこぶるナーバスになっている今日この頃。人は自分の自我を守る方向にも躍起になっているという塩梅なのであった。
確認しておくとだ。そもそも、何かに対して不快に思ったり、腹を立てたり、批判したくなるというのは、それとは違う正しい見解が別にあるからではないというのが正道かと思う。
常識的にいってだとか、道徳的にみてだとか、倫理的に考えてとか、それらはあくまでこじつけに過ぎないわけで。もちろん必要な基準ではあるが、問題は決して対象がその基準からズレていることを主としない。
“自分にとって都合が悪い”
全てはこの一点に尽きるのだ。
自分にもたらされるマイナスの感情の全部は、自分の自我が脅かされること、すなわち、自分の “わがまま” が阻害されていることに起因する。そんなわけですから、自我を堅持しようと誰もが躍起になってるこのご時世、大衆の声は良くも悪くもドンドン大きくなっていて、何ともまぁ〜やかましい世の中になったというのが個人的な感想であり、つまるところ、それによってボクの自我が脅かされているというのが、今のこのブツクサ文章を書いている状況説明にもなるのであった。
表現の世界においては、タブーとされていたことを犯すことに新しさを見出だし自我を満たす人で溢れ返っていたり......。日常生活の中は、他人よりはしゃぎ、自分の都合の悪いものを排除することで自我を安定させる人でごった返し......。社会に出れば、身の程を知ることなく、自分の権利ばかりを求め自我を守ろうとする人で入り乱れて......。
まさに世は自我夢中時代。
無論、何度もいうように今こういうことを主観で一方的に文章にしているボク自身がその一員であるからして、自分で言うのも何だが、憐れというか。誰よりも自分の自我を守ることに必死で、自分の中の都合の悪いことを外に投影して、痛罵して、自我を守って、みっともない。具合が悪い。苦しい。申し訳が立たない。――ということをアピールしてるみたいなこの感じも、自分の自我をまたさらに守ろうとしているみたいで遣る方無い。
地獄のループ。救いのない物語。ゴールのない迷路......。
漫画『バガボンド』の作中で、鎖鎌の使い手・宍戸梅軒は武蔵との決闘に敗れた末、最後に武蔵にこう零していた。
「殺し合いの螺旋から、俺は降りる」
そんなことが可能だと、宍戸梅軒は本当に思ったのだろうか。
降りれるもんならそりゃ降りたい。が、人が人と関わってしか生きていけない以上、“死” 以外にその実現は実質的には不可能だろう。“死” を「処世術」だと太宰治は表したが、この処世術だって余程の信念と絶望を有するわけで中途半端な人間にはこれだって難しい。
宍戸梅軒が鎖鎌を捨てようが、ボクが人のいない山奥に籠ろうが、平穏はないのだ。殺伐とした世界は続く。
もちろんそれを望んでいるわけじゃない。自分の悲観的で傍迷惑なこの発想が今の世の事実でもなければ、そういう見方が正しいわけでもない。正しいことであるはずがない。
“そう解釈することで自分の自我を保っている”
ただそれだけのことなのだ。
ただそれだけのことであるがゆえ、厄介なのである。
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