『表裏一体のことわり』


 ドラえもん長編映画『のび太の宇宙小戦争』の主題歌、武田鉄矢が歌う『少年期』。
 これはボクの中のベスト・ドラえもん映画ソングなのであるが、そのサビ部分といえば同じフレーズがこうリフレインされてあって、切実な仕上がりになっている。
 “ああ ボクは どうして大人になるんだろう”
 “ああ ボクは いつ頃大人になるんだろう”
 いわゆる「大人の定義」というものに関しては、人それぞれに線引きがあることと思う。
 “社会が成人とみなす20歳になったら大人” とシンプルすぎる捉え方をする人もいれば、“親元から離れ、自活出来るようになった時が大人” という人もいるだろうし、あるいは、アジカンのボーカルの人の言だが、「大人とはただの言葉である」なんていう、身も蓋もないような哲学どっぷり上空浮遊パターンもあるだろう。
 そのどれもに納得しつつ、それでいてシックリこないのは、やはり「大人」というものがただの概念で、男女の分類同様、社会が定めた役割にすぎないからなのであろうが、ともあれ、勘違いしてはいけないのは、大人になるということが決しておたまじゃくしがカエルになるようなことではないということである。
 なんせ、20歳を超えていても、自活出来るようになっていても、全て自分の責任で判断し行動していても、子供だな〜と思えるヤツは山といるし、大人だな〜と感じた瞬間に確証はないわけで。要するに、必ずしも “なるもの” じゃないのである。大人とは。
 “ならざるを得ないもの”。
 個人的にはこう捉えるほうが筋が通る気がしている。
 ならざるを得ない瞬間にあって、人は「大人」と一般に考えられるような立場をとるのである。ともなれば、「大人の定義」に関しても、自ずと引かれるべきラインが見えてくるというもので、ボクの独断と偏見を続ければ、おそらくそれがこの状況に当たると考えられるのであった。
 “子供と知覚する対象と対峙している時”
 あるいは、もう少し分かりやすく絞り込めば、“自分に子供が生まれた時(扶養する子供が生じた時)” とでもいおうか。
 つまり、自分が子供ではいられない状況において、人は大人になるのである。
 いわゆる、二項対立と呼ばれるソレだが、要は、子供がいるゆえ、大人がいる。子供のために、人は大人になるのである。
 それは、トランプのカードをテント型に組んで立てるイメージのような。一枚では到底立てることが出来ないカードを、二枚用意することで、斜めに支え合うようにバランスをとってその両方を立たせるといった、いわば、アウフヘーベンのための一手段。互いの存在を認めつつ、あくまで対称をなし、支え合うことで成立するのが、つまり、子供と大人なのだ。
 トリュフォーの映画作品に『大人は判ってくれない』というタイトルがあったが、この邦題を借りてモジるのであれば、“大人は判ってあげない” ことで意味をなす関係がすなわち子供と大人なのである。
 仮にもし大人が子供のことを全〜部判ってあげたとしたら。大人が過剰に斟酌し、子供のなかの不満が一切取り払われてしまったとしたら。おそらくその子供は腑抜けになるに違いない。あるいは、とんでもないモンスターに仕上がって、社会の迷惑人と化すか。
 先のカードの例を引っ張れば、子供側のカードの傾き方をまんま受け入れることで、バランスがとれずパタンと共倒れしてしまうのに同じだ。
 要するに、この社会にあって子供のため(あるいは自分のため)を思うのであれば、大人たるもの子供と敵対する部分を必ずもつべきだということなのである。
 無論、これは子供を排他的に敵視しろということではない。四六時中敵対すべきということでもない。大人側のカードの傾き方が急すぎても、バランスは成立しないわけで。この辺も塩梅だ。
 つまり、愛をもって、それ相応に、子供にフラストレーションを与えれる存在であれということである。
 誤解をおそれずに攻めた言い方をすれば、子供に対して大人はある種理不尽であったほうがいいということである。
 ミスチル風に置き換えるところの、“高ければ高い壁のほうが登ったとき気持ちいいもん” だということを体感させてやれということである。
 そんなわけで、支えることも然ることながら、仮想敵としての大人の存在は、子供にとって必要不可欠なものであると思われるのだが、しかし、昨今の晩婚化、少子化、高齢化といわれるような今のこの時代にあっては、“ならざるを得ない” 大人は、その絶対数を年々減らし、世の中の大人の存在はその意義とともにどんどん薄まりつつある様子で、いろんな意味で子供の側に過剰な世の中になっていってるような気がしないでもなく......。
 国が豊かになりすぎたことに伴い、個々人をまとめるような絶対的価値は喪失され、人々はそれぞれに自閉、行動の動機を自身のエゴイズム・ナルチシズムの満足に委ねざるを得ないこの時代にあって、子の親たる大人は自身の自我を満たし守るように子に対する過保護を極め、子供の影響を理由にあらゆるものに過剰反応。子をもたないものは大人になりきれず、相変わらず子供の側に立ったまま上っ面で社会を忌み嫌い、子供気分でお祭り騒ぎ。“小さい” 子供のためのイベントは、いまや “大きい” 子供の喰いものに取って代わり、流行だ、夢だ、自由だ、自己発見だ、自己実現だ、自己開発だと、進む自我夢中。伸びるモラトリアム。蔓延するピーターパン症候群。とかく子供と大人の境界があやふやになってきている今日この頃。(オール主観です)
 一身にして二生を経るが如く。人生配分がちょうど20世紀と21世紀のハーフ&ハーフになっている今の自分にとっては、何とも空恐ろしいというか、有り有りと実感される時代の変容に戸惑うことしきりなのであるが、しかしまぁ、“年を取る” ということはこういうことなんでしょうな。天突きで押し出されるところてんのごとく、自分という人間を形成し、よすがとしていた既知の時代はたかだか数十年でもはや遠い彼方だ。とにかく、子供と大人の有り様も時代の流れの中で確実に変化していってるとのことであろうが、話の主題は、この子供と大人の関係のような二項対立的なシステムが、我々の人生の大きな足掛かりになっているという件についてである。
 大学1年だった頃の夏休み。
 地元に帰省していたボクは、その日高校時代の友人達と集い、その内の一人、Eという男が下宿するアパートにお邪魔していた。
 仔細な事情は忘れたが、Eには彼女がいて、その彼女とそのアパートで同棲していたとか、Eが彼女の家に転がり込む形で一緒に住んでいたとかどうとか、とにかくその時その場にはEの彼女もいて、女性一人を野郎数人で囲っての談笑中、ふとメンバーのうちの一人が彼女をメインにこんな企画を提案しだしたのであった。
 「ねぇねぇ、オレらの中でさ、カッコいいランキングつけてよ」
 ザワっ...... である。
 なんちゅーことを言い出すんや、おのれは!! であった。
 まったくもってナンセンス。くだらないことこの上なし。そんなことでしか自尊心を満たせんのか、貴様は! という思い。
 ヤレヤレである。
 これだからガキは困るぜ、である。
 が、しかし、“そんなしょーもないこと、します?” とドン引きしていたのは、自分のイケてなさを明確に自覚し、結果を前にヘコみたくなかったボクだけで、他のメンバーはみんな信じられないぐらいノリノリ。どう見積もってもエレファントマンとしか査定しようのない顔面の持ち主ばかりであったはずだが、一同謎の自信をほとばしらせながら企画に賛同。彼女に早速の格付けを促すではないか。
 “自分を知らない” ということの、オメデタさと恐ろしさと傍迷惑さたるや如何ほどか。
 「え〜、じゃあちょっと待って、考えるぅ〜」と言ってすんなり事態を受け入れたのはその彼女。
 この女はこの女でいい根性してるというか何というか。そんな角が立ちそうなことをよくもまぁ〜平気でやれるもんである。
 そんなこんな、こちらの意思とは裏腹に余興は満場一致のムードをもって勝手にスタート。エントリー対象はその場にいなかったメンバーも含め、彼女が知っている我々仲間内数人。
 シンキングタイムに入る彼女。
 すると、『ストリートファイター2』でボコられた後のベガみたいな顔したメンバーがここでみんなにこの確認。
 「ちょっ、待って待って。これアレだよね? 純粋に顔だけってことだよね?」
 どの顔が言うとんねん。鏡みたことあんのか、お前。......であったが、とりあえず見た目の判定ということで確認を終えると、いよいよ彼女の口からそのランキングは発表された。
 まずは1位〜3位。ここは我々仲間内でギリギリ人類と呼べる見た目の持ち主である2名と彼氏であるEという、妥当な3名がランクイン。
 想定の範囲内である。
 これはもう順当というか何というか、他のメンバーも納得の心持ち。大した物言いも生じず、「まぁまぁまぁ」「そこはね」「致し方ありませんな」と、淡々と発表も進められていく。そう、問題はここからであった。
 なんせ、待機場を見渡せば残っているのは可愛げのないモンスター群。さぁ、机の上に並んでるのはあとはもう全部エグめのゲテモノ料理でっせという状況を前に、ここからがリアル消去法。発表されていないブサメン達の手にも汗が滲む。現場は泥仕合の様相を呈する気配プンプン。
 案の定、4位以下が発表されるたびに激しいブーイング。醜い罵り合い。血みどろの殴り合い。痛々しい自己弁護。負け犬の遠吠え。虚勢の張り合い......etc.
 人間、斯くも見た目に囚われてる生き物なのかと。見苦しいまでのその応酬にこちらもすっかり茫然自失。そりゃもう呆気にとられましたよね、まったく。
 ......なんて調子で、目の前で繰り広げられる人間模様にウンザリしつつ、我関せずとばかりに距離を置いて傍観のスタンスをとっていたそんなボクであったが、終盤、ここでふとある事実に襲われることとなる。そう、ランキングも残りあと下からベスト3という状況で、自分の名前が発表されていないという事実。
 待て待て待て待て!!! である。
 どういう了見だ!!? である。
 別に自分が他のモンスター達よりカワイイと思われたいとか、コイツらよりマシと自分が思ってるとかそういうわけじゃないのだが、何というか、ドラクエのモンスターでくさった死体が数体同時に出現したなかで、真っ先に殺されたのが自分でした的な運のなさというか。いや、それすらもしょうがないことで、どうでもいい。ただ、ここでビリに据えられたとなると、ここにいる連中がそれをネタに一生オレをブサイクキャラとしてイジってくるに違いないんだ。面倒臭いことこの上ない。そこから百歩譲ったとして、目クソ鼻クソを笑うのも結構、しかし、コイツらが目クソであることを忘れて誤解して、お調子にのってしまっては、これは世の中のためによくないのである。友人として責任を感じてしまう。というかね、そもそも、コイツらより自分の見た目がマシだとは思ってないにせよ、コイツらが先に選ばれる理由もオレには見当たらんのだ。このランキングが所詮彼女の好みや都合でしかないことは解っているものの、ボクは心の中で悔し紛れにも格付けした彼女に対しこう絶叫していたのであった。
 “アンタ趣味悪いよ!”
 人間、余裕をなくすとこうも性悪になる。そして、冷静を装っていた自分が実は一番そういうことを気にしていたという情けない現実。そんなわけで、ボクの根性を彼女が見抜いていたのかどうかはわからないが、結局、残り3席のうち、ボクが指定された席は、YES、キング・オブ・ブサイク。
 サプライズでしたね〜、実際。まさか自分がこの席に座れるなんて。
 光栄というか、恐れ多いというか、身に余るというか、他に相応しい人がいるというか。いざ面と向かって指名されると、なかなか躊躇われるものである。アカデミー賞で最優秀賞を受賞した人が言葉に詰まる気持ち、よくわかりましたよ、ほんとに。
 「まぁまぁ、アポロさん。お遊びお遊び」「あくまで彼女の好みですから、ええ」「おいしい、おいしい」と、満面の笑みでなだめにかかるのは他のブサイク達。
 ニヤニヤするな!!!!
 そして、発表を終えた彼女は彼女で、“なんか悪いことしちゃったかな......” 的な面持ちで、フォローするようにボクに向かってこういう付言をする始末。
 「あっ、でもでも、眉毛の形は好き。眉毛は3位」
 どこフィーチャーしとんねん。
 っていうか、3位って何だよ、3位って! 尾張で全滅しそうになってるのに、ブラジルに援軍を送るな!!
 散々である。
 釈然としないボクを余所に、完全にゴキゲンになって彼女の前でスカし始めるランキング上位のメンバー達。自分のブサイクは認めても、コイツらがイケメン然とする感じはどうにも認め難い。どこが目で、どこが口かもわからん連中がオレとの間に線を引っ張り、悦に入るなんぞ......。けしからん。浮かれポンチな面々を前に、ボクは負け犬の遠吠え然と自分をなだめるように心の中でこう吠え至るのであった。
 “貴様らの今のその気持ちイイ感じは、オレというブサイクがいるおかげだからな!!!”
 ブサイクがあるゆえ、イケメンがある。ブサイクがあってイケメンがたつのである。
 肝に銘じろ! と思ったが、これはおおよそみっともないと我に返ったので、紙にしたため瓶に詰め、心のゴミ溜めに遠投しときました。
 然りとて、世の中とはそういうことなのである。
 不味いものがあるから美味いものがあり、上手い人がいるから下手な人もいる。
 かつて、デヴィッド・ボウイは「ロックスターやアイドルは人間の不幸の象徴である」と言っていたというが、スターやアイドルが何でおまんま食っていけてるのかというと、これも実情は幸福と不幸の区分けがあって、不幸な(現実逃避したがる)人間が相当数いるおかげだったり......。嫌味ったらしい言い方になるが、商業主義が色濃い今のスターやアイドルたちは、人々が不満に感じるこの社会や世の中の有りようにある意味感謝すべきだろう。その解放や緩和を願う彼らにとっては大いなる矛盾であるが、自分達の生活と表現の場がそのおかげで成り立っているのだから。
 幸福と不幸、幸運と不運、理想と現実、非凡と平凡......。
 全ては相対によってのみ規程される。
 そして、そのどちらかに陽が当たり、どちらかが影になってしまうとのことなのだが、見た目に関していえば、どうやら現代においては自分が影側を演じなければいけないという不運。平安時代あたりに生まれていたならば、あるいは今の自分の顔の作りがイケメン側に該当し得たのかもしれないなんてことを思うとやるせなくもなるが、まぁ、こればっかりは言っててもしょうがない。
 ともあれ、相対によってしか人生を規程出来ない人間が、その相対によって必然的に生じる差別によって苦しまざるを得ないという悲境。悲劇というか、何というか......。
 人生とは皮肉なものである。


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