『猪突妄信』


 宮崎駿監督に密着した某番組で、ドワンゴの川上量生さんに最新の人工知能技術を教授されていた宮崎監督が、使用されていた素材のチョイスミスとでもいおうか、それを引き金に不快感を露わにするというシーンが印象的であったが、ここ最近、あの出来事の真意をどこぞのインタビュアーに訊ねられ応じている宮崎監督の動画が出回っているということで興味からそれをみてみたところ、そこでの発言が実に今の世の中を的確にえぐっているようで非常に強い感銘を受けた。
 「歯止めをもっていないなと思っただけ」
 事も無げにただ一言だけ、聞かれたことに対しそう述懐していた宮崎監督。
 あぁ...... 宮崎駿という人は本当に端的且つ精確な言葉で正鵠を射るお方だなと、その受け答えを前にボクとしてはただひたすら唸らされるほかなかったわけだが、要は業におぼれる人間に対する苦言ともとれるような宮崎監督のその発言に個人的に何か社会の課題ともいえる啓示を勝手に感じたという次第なのであった。
 無論、それというのはただ単にボクが兼ねてより宮崎監督から発信されるものに救われ、思い入れ、肩入れし、曲解しつつも彼の思想性に自我を委ね、仮託し、精神分析的にいう “同一視” している部分があるからなのかもしれないが、それでも人として生きている以上「歯止め」の重要性は正気な人間であれば、誰もが痛切に感じるところのものであるはず――。なんせ人間っちゅー生き物は、絶対的な根拠や秩序を持ち合わせていませんから。おまけにバカ。先日、本屋で「バカとつき合うな」みたいなタイトルの書籍が並んでいるのをみかけて目を剥いたが、概ねそれぞれがどこかで自分をバカと勘定に入れていないバカっぷりで、とにかくほっとけば天国だろうが地獄だろうが盲目なまでにトコトンまで突っ走って猛進(妄信)する暴れ猪。止まらないHa〜Ha。
 たとえば。これはまた古い話にはなるのだが手近な体験から検証すれば、高校時代の話、仲間内で流行っていたあるゲームを巡ってはこのような事の有りさまなのであった。
 皆さんは「大富豪(あるいは大貧民)」と呼ばれるトランプを使ったカードゲームをご存知だろうか。
 耳にしたことぐらいはあるのではないかと思うが、件のゲームというのがこの「大富豪」で、まぁ〜当時のボクらといったら三度のメシよりコレ、とにかく暇をみつけてはみんなで集まってこのゲームに勤しんでいたわけでして。
 いちお知らない人のためにざっくり説明すれば、ルールにのっとって配られた手持ちのカードをさばいていき、より早くカードをなくしアガった人が勝ちというゲームなのだが、UNOみたいなもので、当然さばいていく過程も頭を使ったり駆け引き要素もあったりとゲームとしてよくできていてエキサイトするわけだけれども、このゲームのミソたるは、5人でプレイしたとすれば上がった順にその都度、大富豪(1位)・富豪(2位)・平民(3位)・貧民(ブービー)・大貧民(ビリ)という階級に割り当てられ、下になればなるほど不利な条件で以降のゲームに臨まなければならないという天国と地獄システムにある。
 この階級分けがいかにも “ニクい” 設定で、人の根っこにあるナルシシズム・優越欲を煽るというか、つまり病みつきにさせられるわけなのであるが、我々のあいだではさらにその部分を一層助長・盛り上げるため、あるルールを追加していて、それが “表向きの態度もその階級分けに準じなければならない” というリアリズムの導入であった。たとえば自分が平民に位置したら、次のゲームが終わり格付けが変更されるまで、上の大富豪と富豪には常に “様” 付け、敬語で接し、発言にはすべて従わねばならず、逆に下の貧民・大貧民に対しては虫けらのような扱いをしてもいいという、いわば完全タテ社会の実演。
 ともなれば何が起こるか。ここに尋常じゃないスリルが生じるわけである。
 “大貧民(ビリ)にだけはなってはいけない!!”
 みんなの脳裏に掲げられる暗黙のこのスローガン。
 そう。大貧民なんかになろうもんならこれはもう屈辱がエグい。
 大貧民になった途端に、周りからよっちゃんイカを投げつけられながらさっさと次のゲームの支度(カードを配り直す)をしなければならなかったり、大富豪さまの肩を揉まされたり、ドリンクをお注ぎしたり、夏ならクジャクの羽で煽いだり、指で合図されれば、雑誌の折り込みグラビアを開き、ちょうどいい高さに掲げて鑑賞のお手伝いをしたり――。挙げ句の果ては、平民ごときにまでぞんざいに扱われる始末で、大富豪・富豪に命令された平民がそれをそのまま貧民・大貧民に命じてきたりもするものだから、過酷&腹立たしさMAXの無間地獄。
 結果、上のものは悦に浸り、下のものは何とかやり返してやろうと野心を燃やし、メンバー全員ますます没入していくことになるわけだが、人間、のめり込めば込むほどそれに比例して見失うのが客観性や冷静さというもの。斯くしてここにある乱れは生じ始めるのであった。
 そう。理性の麻痺である。
 という流れで、ここでもう一つ、我々のあいだでの決定的なルールを紹介しておこう。
 それはゲームを終え格付けが決定した際、ビリの大貧民が屈辱的立場になる入り口としてまず手始めに、一位になった大富豪によって指示された “罰ゲーム” を次のゲームの前に必ずこなさなければならないというもの。
 たとえば、大富豪さまが「腕立て50回」と命じれば、大貧民はその場ですぐ腕立て50回をせねばならず、「全員からデコピンの刑」と処されれば、大富豪のみならず平民・貧民含め自分以外の全員から地球上の元気を集めたぐらいの破壊力のデコピンを受けねばならない――と、そういう塩梅だ。
 察しのいい人はここから話がどう転がっていくかよもやピンときていることと思うが、そうなのである。これが最初のうちはいい。理性が働いているので「腕立て」やら「デコピン」やらまだ笑ってこなせるほどその内容も “ほどほど” なのであるが、これが回が増すごと地獄の様相を呈していく。もっと面白く、もっと刺激的に、あるいは倍返しで先の恨みをはらすべく、事態は派手に過激に法外にエスカレーション。
 ある者がミラクルをおこし下の地位から一気に大富豪に昇格した際の罰ゲーム指令時にはこうだ。
 「オレは平和主義だから。穏やかにいこう」
 苦渋をなめさせられた人間の境地とでもいうべきか、次の大貧民が胸を撫で下ろす前置きをしたかと思えばその刹那、ほほ笑みを浮かべながら優しくこの指示である。
 「全員から一発殴られる」
 血で血を洗うカウンター。
 瞬間で記憶なくしたんか? と、戸惑いもひとしお。急転直下のハードボイルド。
 「あ、殴るってアレよ? 肩ね、肩。全力の肩パン(肩パンチ)ね。」
 肩パンだろうがカトパンだろうが、全力でやられたんならたまったもんじゃない。肩が砕けて脊髄がオパールである。(意味不明)
 肉体酷使系が度を超し板に付けば、あるターンではこのザマだ。
 「よ〜し、じゃあ、〇〇ちゃん(クラスの個性派女子)に今からTELして告白!」
 人としてのモラルも消失。
 他人を巻き込むのはさすがによろしくないのでは...... と、各々どこかで思っていたとしても、場が盛り上がってしまえば結果的にそちらの雰囲気が優先され、また飲まれてしまうわけだから集団心理は恐ろしい。
 そして、極めつけはこの命令である。
 「前髪...... 全部ピンセットで抜こうか」
 常軌逸しすぎ!!!
 耳を疑うほどのオリジナリティ。
 何を言い出したの? この人!? 状態。
 なんぼ十代とはいえ、その後遺症たるや想像を絶するわけで、これはもう正気の沙汰じゃない。
 「そ、それだけは勘弁してくれぇ〜!!」
 この時の大貧民もさすがにこれには激しく抵抗。縋るように泣きついていたが、これに即座に待ったをかけていたのが自分の手を汚さず相手の不幸を堪能する大富豪の下々たち。懇願する大貧民を制止し、大バッシング。社会においてもプチブルというのはタチが悪いが、こういうゲームの場でも中層の醜さは一級品。すると、そんな場の空気に指示をだした大富豪もいささか冷静さを取り戻したのか、我に返った様子で居住まいを正すと、下々たちを払いのけ大貧民を手招き。怯えきったその眼をすっと見据えれば、彼の頬に手を添え、穏やかな口調で静かにこの返答なのであった。
 「貴様、誰に口きいとるんや?」
 地獄も三丁目までくると後戻り出来ないらしい。
 結局、大貧民の土下座につぐ土下座により妥協の末、“前髪数本抜く” に何とか留まっていたが、要するにだ。これをただの仲間内の戯れと一笑に付すなかれで、人間、何かやり出したことに対し、それがひとたび欲望を満たす(自我を安定させる)ものとして馴染み、あるいは共同化されてしまえば、往々にして行き過ぎ、度を越し、後戻りできず、傍目にバカとしか思えないようなことをやってしまいがちだということなのである。
 話を飛躍させまくれば、どうだろうか。高度経済成長を経て今に至るこの日本の大量消費社会なんかもまさにその歴史――そういっても過言ではないのではなかろうか。宮崎監督が呈された苦言もまさにそういう世の中の趨勢を背景にしているものと思われるのだが、これいかに。
 まぁ、モノの善悪なんてものも、所詮個人の価値観・都合次第で変幻自在なわけだから、別に今のこの状況が間違っているなんて大それたことを言うつもりはないのだが、ただ、少なくともボク個人としては以前にも似たようなことを記した気もするが、テレビの情報番組なんかを眺めていると、物質なり技術なり何なり、あらゆるモノが欲望のまま止めどなく暴走し、氾濫しているような、また、それに比例して人がどんどん取り返しのつかない状態に陥っているような、いかにも墓穴を掘っていってるような、そんな錯覚に襲われてならず......。
 それでいてまた何が気掛かりって、たとえそれがボクの迷妄や世迷い言だったとしても、可能性の一端としてあって然るべきところを誰も何も疑わない(行動が伴わない)ところである。あるいは疑っていたとしてもそれは “バカなヤツ” のせいであって、“自分は違う” と、意識的にも無意識的にも一線を画する過度の個人主義にある。
 事件なり何なりでしばしば目にするようになった第三者の反応がまさにそれを物語っている。一歩間違えれば自分もそっち側の人間になり得るんだ、いや、ひょっとしたらそっち側の人間なのかもしれないという危機感や想像力が微塵もないのである。あるいは、そういうものをもたないように自分の都合を優先し、自己欺瞞に努めているのである。ネットやSNSの普及によって多くの人がお手軽且つ軽率に表現者然としだした昨今にあって、いかに相手より正論をいうか、人の揚げ足を取るかに無我夢中ならぬ自我夢中になっている様もまたその裏付けといえよう。こういう偏狭な文章を綴っているボク自身がその一人なのだから、よくわかる。自分がそうだから他人もそうだと括るのはいささか驕りがあるように思われるかもしれないが、自分が他の人達と違って特別なわけでもあるまいから、全くの見当違いでもないと踏んで憶測を続けるが、とにかくそういう諸々を引っ括めて、人はあらゆる方向に際限や節度がないのだ。いや、正確にはそういうものをもち得ないのだろう。
 だからこそ、僕らには歯止めが必要なのである。一事が万事で、ある程度の大局観と歯止めをもたなければいけないのである。
 山中伸弥さんが発表しノーベル賞を受賞したips細胞というものがある。これは無限の可能性を秘めた再生医療として今や広く知れ渡った案件であるが、その実用化に際し、あれやこれやと所望し期待され届く世間の声を片手に、同研究を続ける山中さんが倫理観の問題を非常に重要視されているとのことを瞥見し、腑に落ちたというか、いたく感銘を受けたことがあった。言うなればこういうことである。
 また、これは電車の映像広告でみかけ同じく深く頷かされた言葉であるが、ビールのCMで映画監督の庵野秀明氏が “進化” について問われ応えていたこの至言。
 「進化はあきらめていいと思う。今はやらなくてもいいことまでやってる気がする」
 “好きなように生きる” ことが謳われ、“やりたいことをやればいい” と煽られまくっているこの時代。すでにやりたい放題やってきてしまったいわゆる大人側の妄信や負い目から、ますますこの雰囲気は歯止めなく拍車がかっていくことになるであろう。
 ある部分で異論はないが、ある部分で警戒しなければいけないことを大人がまずキチンと自覚し、それを行動で示さなければいけないのではなかろうか。“行動で示している気になっている自分” がいないか、折に触れて顧みる必要があるのではないか。――なんて事々しい思いが日々こんこんと湧き起こっては渦を巻いたり......。しかしまぁ、これも所詮は自分の “都合” にすぎないわけだから、誰かにとってはヒドく身勝手で、間違った意見であることは必至であり、また、“同じアホなら踊らにゃ損” という振り切り方も一つの考え方として間違っていない気もするので、やはり何を思ったところで “自分の考え” という域から出るものではないのであろうが、しかし、個人的にはなにか自分のなかの歯止めとして、そういう意識をもつことが日毎重要になってきている今日この頃。

なろう!  なろう!  あすなろう!
明日は檜になろう

 これは藤子不二雄A先生の『まんが道』の中で引用されていた井上靖の小説の意訳文で、檜のような立派な木になろうと憧れ、願い、考え、想い続ける木としてあすなろを捉え、もじり、理想を追い続ける姿勢を表した韻文である。
 元ネタの小説では登場人物に「でも、あすなろは永久に檜にはなれない」とバッサリなのだが、ボクにいわせれば檜になれるとかなれないとか、そんなことは何ら重要じゃないと思うのである。大切なことは一つ。志を持ち続けること。
 あすなろはきっと自分が生涯檜になれないことをわかっているに違いない。それでも立派だと思える檜に少しでも近付けるよう、いつ何時もその想いを忘れず目指し続けるのではなかろうか。そう捉えるなら、あすなろとは実に健気で立派な木だという風にも思うことができる。檜のようになりたいと想うだけで何も努力しないからあすなろは檜になれないんだと皮肉って捉える向きもあるが、いやなに、“自覚” があるだけマシなのである。
 自分のことを棚に上げ、口を衝けばそんな皮肉をいい、ややもすれば綺麗事で自己欺瞞ばかりしているボクたち人間はどうだろう。あすなろにも及ばないのではなかろうか。いや、及ぶまい。及ばないと思っといたほうがいい。
 ボクらのなかの過信、慢心、思い上がりにこそ歯止めは必要なのである。


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